敗戦後間もない昭和22年、極東委員会によって原子力研究を禁止された日本は、原爆製造とは直接関係のない大阪大学、京都大学及び理化学研究所のサイクロトロンまでもが進駐軍の手で解体された。中でも、理化学研究所仁科研究室のサイクロトロンが東京湾に投棄された話は有名である。26年のサンフランシスコ平和条約締結により研究再開の道は開かれたものの、それが具体化されるためには、28年12月の国連総会でアイゼンハワー米大統領が行った「原子力平和利用提案」(Atoms
for Peace)という契機を待たなければならなかった。
昭和29年、ウラン235に語呂を合わせたといわれる2億3,500万円(ウラン資源調査費1,500万円を加えると2億5千万円になる)の原子力予算(昭和30年度予算)が成立した。国家予算(一般会計)が1兆円の時代であったことを思えば、原子力発電についての政治家の出足の早さと意気込みの激しさがうかがわれよう。一方、学会にはまだ、懐疑的、批判的な空気が強かったし、たまたまビキニでの水爆実験による第五福竜丸被爆事件(昭和29年3月)もあって、原子力そのものに対する不安・不信は一般国民の間に根強く広がっており、この予算をめぐる世論には極めて厳しいものがあった。
昭和29年4月23日、日本学術会議の総会は「原子力に関する平和声明」を決議し、「原子力開発を平和利用に限定するために、民主・自主・公開の三原則に従う」ことを声明、政府に対しても申し入れを行った。この三原則は、31年1月1日施行のいわゆる原子力三法(原子力基本法、原子力委員会設置法、総理府設置法一部改正法)のうち、原子力憲法ともいうべき原子力基本法の中に明示されている。
原子力三法の施行による原子力委員会の設置と相前後して、日本原子力研究所(原研)、原子燃料公社(44年に動力炉・核燃料開発事業団に吸収される)及び放射線医学総合研究所が発足し、これに伴って原子力予算も昭和31年度約20億円、32年度約60億円と急激に膨張した。
昭和31年、茨城県東海村に敷地を決定した原研は、ノース・アメリカン航空会社製、熱出力50キロワットの沸騰水型「JRR-1第1号実験炉」によって、翌32年8月27日、日本初の「原子の火」をともすことに成功した。この時の熱出力はわずか60ミリワットに過ぎなかったが、11月には定格出力を上回る60キロワットを達することができた。記念すべきこの1号路炉は、43年、老朽化のため運転を停止するまでの12年間、広く研究者や技術者に開放され、多くの分野で研究に利用されるとともに、電力各社などの原子炉運転員の養成にも大きな役割を果たした。
原研は「国産第1号」と銘打って開発を急いだ実験炉JRR-3こそ、日立製作所のHTR(熱出力100キロワット、スイミング・プール型)に国産原子炉第1号の名誉は譲ったが、昭和38年10月26日、動力試験炉JPDR(ゼネラル・エレクトリック社製、最高出力1万2,000キロワット)による初送電に成功し、原子力発電の実用化に画期的な一歩をしるした。「原子力の日」はこの日を記念して制定されたものである。
さかのぼって、昭和32年、諸国に先駆けて商業原子力発電を手掛けていたイギリスからコーダーホール型動力炉(ガス冷却炉)を導入するため、9電力会社を中心とした民間主導の日本原子力発電㈱が発足し、昭和41年にはその東海発電所が営業運転を開始した。
昭和33年6月16日、日・米、日・英間に原子力協定(動力協定)が調印されると、アメリカの売り込み攻勢は一気に高まった。たまたま、ウインズケールの黒鉛炉で事故が発生し(32年10月)、イギリスが動力協定に第三者損害賠償の免責事項挿入を申し入れてきたこともあって、わが国原子力発電の路線はイギリスからアメリカへと大きく方向を変え始める。火力発電で提携関係にあったことから、東京電力はゼネラル・エレクトリック社(GE社)の沸騰水型、関西電力はウエスティングハウス・エリクトリック社(WH社)の加圧水型を導入し、それが今日まで9電力の軽水炉の沸騰水型、加圧水型の分布を決定付けている。
9電力のうち、原発建設計画の具体化にいち早く取り組み始めたのは関西、東京の2社であった。関西電力は、昭和37年11月に第1号炉の敷地を福井県美浜町に決定、東京電力も翌38年2月、41年度着工、45年度運転開始の計画を発表している。特に関西電力の場合は、45年8月8日、9電力のトップを切って美浜発電所が原子力発電に成功し、折から開催中の大阪万国博覧会場に送電するという華々しい劇的第一歩を踏み出した。こうした主力両社の強い意欲と、原電東海発電所の営業運転(41年)開始などから、本格的な商業的原子力発電時代の到来を見てとった他の電力会社も、44年までには、産炭地としての特殊事情を抱えた北海道電力を最後に、原子力発電所の建設に向かって一斉に走り始める。
出典:女川町史(続編)