女川町誌 続編
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部のうち、建設地周辺の各支部組合員を中心に、賛成派の動きが活発化するにつれて、漁協内部での賛成・反対の論争は日に日に激しさを加えていった。しかし、一方では漁協と東北電力及び行政側との間で漁業補償、安全協定についての話し合いが着々と進んでおり、大勢の赴くところは徐々に明らかになる。 こうして、賛成派の勢力の強まる中で、反対派の団結はいっそう強められた。その抵抗の激しさは昭和五十二年十一月二十五日の女川町漁協臨時総会において、建設同意を可決しながら、漁業権の一部喪失の承認は否決するという、いささか矛盾した議決からも容易に想像できよう。 ひるがえって、漁民以外の一般町民のこの問題への反応はどうであったろうか。大多数の町民は、原子力に対する多少の漠然とした不安はあっても、誘致による町の活性化への期待、木村町政に対する信頼感などから、表立って反対を口にし、行動を起こすことはなかった。とはいえ、安全協定、漁業補償協定が締結調印され、原発建設が既定の事実となってから行われた昭和五十四年一月の町長選挙で、反原発を旗印に立候補した阿部宗悦氏が得た三千七百余票は、この時点でなお、有権者町民の三分の一が原発に対する不安を拭いきれないでいたことを物語っている。 女川町漁協に続いて、牡鹿町前網・鮫浦・寄磯の各漁協と東北電力の間に次々と補償協定が結ばれ、女川原発の建設着工が目前に迫った昭和五十四年三月二十八日、米国スリーマイル島で大きな原発事故が発生し、世界は原子力発電の安全性をめぐる論議で一時騒然となった。山本知事は木村町長の意を受けて国に対して女川原発の安全性等を見直し、具体的対応策を示すことを要求するとともに、東北電力からの許認可申請の受け付けを保留し、本町も東北電力に対して、国の明確な安全対策が示されるまで建設には慎重に対処するよう要望書を提出した。六月二十五日、通商産業大臣から県知事あてに、「女川原発の設置許可については特に変更の必要は認められないが、建設着工に係る 64
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