女川町誌 続編
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原子力発電に成功し、折から開催中の大阪万国博会場に送電するという華々しい劇的第一歩を踏み出した。こうした主力両社の強い意欲と、原電東海発電所の営業運転(四十一年)開始などから、本格的な商業的原子力発電時代の到来を見てとった他の電力各社も、四十四年までには、産炭地としての特殊事情を抱えた北海道電力を最後に、原子力発電所の建設に向かって一斉に走り始める。 一方、昭和三十八年来、地域開発政策のひとつとして原子力発電所の適正配置を検討し続けてきた国は、毎年三ないし五か所の適地条件調査を進め、東北地方では秋田県能代市、青森県東通村、山形県鶴岡市の三か所が候補地に挙げられていた。こうした情勢に刺激されて本県にも原子力発電所誘致の機運が高まり、県は国からの委託を受けて県内適地条件調査を実施することに決定した。 この調査に当たって県が当初選んだ候補地は、本町の小屋取地域と御前地域及び北上町相川地域の三か所である。やがて、地形・地質・交通・気象などの諸条件を総合判断して最終的に調査地を小屋取地域に絞り、地質調査を中心とする本格的な調査に取り掛かった。その結果、原子力発電所が持ついくつかの制約条件に照らしても、なお適地であるとの判断に達し、昭和四十二年四月十七日、女川町小屋取地域(鳴なら浜を中心とする)が適地であると正式に発表した。 このころ、すでに東京電力の原発立地県であった福島県が、東北電力に対して同県浪江町への原発誘致を強く働きかけていた。また一方では、雄勝町漁協組合員の間に県の発表に対して、原発拒否運動への動きが見え始めている。 小屋取地域を適地とする県の発表があると、予備調査の段階から町の活性化の目玉として原発誘致を考えていた木村町長は、浪江との競合を強く意識していた模様で、県に対して誘致を陳情するとともに、昭和四十二年七月三日の 59
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