女川町誌 続編
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長い間町の看板のように親しまれてきた建物がある。女川ビルの名で知られる、鉄筋コンクリート三階建て(敷地面積一五三七・六六平方㍍)のこの建物は、まったく任意の個人が集まり、力を合わせて、数々の障害を乗り越えて実現した共同ビルであり、地方には珍しい。 県有の海岸埋立地の払い下げを受けて共同ビルを建てようという話が持ち上がったのは昭和四十年のことであったが、この計画に関心を示した人々のうち最終的に残ったのは神農吉雄・平塚はつえ・笠和夫・宮本日道・西島道夫・佐藤淳・木村竹雄・山田孝義・丹野昌美・遠藤晋の一〇人であった。払い下げに当たっては難しい問題も多かったが、幸い当時県会副議長であった木村喜代助氏の献身的な援助を頼りにどうにか乗り切ることができた。資金は住宅公庫の中高層耐火共同建築物資金の借り入れによることにしたが、経験のない素人の集まりのこととて、申請書類のそろうまで関係者の若労は並たいていのことではなかったという。しかし、様々な障害をひとつまたひとつと克服する過程で自然に養われた「ひとつ屋根の下に住む」という連帯感によって、一〇人の人々の心は固く結ばれていった。 昭和四十一年十月二十日に融資の決定を受け、ビルの本体は翌年夏に完成したが、内装は各自の発注によったため入居はまちまちとなった。建設から二〇年を経て所有者に一部の移動があった現在も、この事業を通して培われた共存共栄相互扶助の精神は立派に根づき、親睦会の形で生きている。 津波による浸水が予想される市街地で、海岸に面してこのような大きな建物があることは、後背地における波高を減じるうえで著しい効果のあることが、模型による実験で確かめられ、学界の注目を集めたのは最近のことである。もちろん当時の一〇人がその効果を予期していたかどうかは別として、結果的には、いわば町民の隠れた先見の明であったわけで、わが町の誇りのひとつといっても過言ではないであろう。 48
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