女川町誌 続編
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耳にした。大きな衝撃を受けた神田氏は、さっそく戦跡を巡礼して英霊の供養を行った。この旅の間に氏の胸には終戦直前の空襲で戦死した戦友一五八人の慰霊塔建立の発願が宿ったという。タイ国滞在中、神田氏は共同通信バンコク支局長寺尾市松氏の知遇を得たが、神田氏の発願を聞いて心を打たれた寺尾氏は、家宝としていたタイの古い仏像(約一二〇〇年前の作と伝えられる)を贈り、神田氏の志を励ました。 私財を投じての慰霊塔建立を決意した神田氏は、帰町 するとただちにその実現に奔走した。氏の熱意に打たれて、女川海友親和会(鈴木英樹会長)町民有志へと次第に共感の輪が広がり、町当局も全面的な協力を約すに至った。戦跡の海上を見下ろす国道三九八号線沿いの高台に地を定め、昭和四十一年八月十日、全国各地から集まった遺族や戦友が参列して除幕式を兼ねた慰霊祭が盛んに行われた。 以後、この日の慰霊祭は、女川海友親和会を中心に、天草あまくさ会(女川湾で沈んだ「天草」乗組員の会)、立正佼正会、石浜念仏講、女川町などの協賛で現在まで欠かさず行われている。碑の建立に当たって礎石として戦跡付近の石の採取に苦労した施工者阿波石材店、周囲に敷きつめるために湾岸の小石を集めた遺族や婦人会の人々、年間を通じて清掃奉仕を続けている石浜老人会など、神田氏の発願を支える多くの町民の善意があったことを忘れることはできない。29

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