女川町誌 続編
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為的要因(働き手確保のための養子縁組みといった)がかかわる地域的な現象なのかといった、興味深い課題となりそうである。 もう一点は、元禄から安永へかけての五部浦地区と内湾沿岸区の人口増である。五部浦地区については、塚浜の遠藤家(「白幡大納言伝説」の項参照)に、アワビ、コンブなど海産物の伊達藩御用達を勤めたと伝えられ、その時期が明らかになれば、それがこの地区の繁栄に貢献したことになると言えるのかもしれない。内湾沿岸地区については、商業、水産加工業といった第二次、第三次産業の面での前進が見られ始めたことの反映かと考える。女川の平塚家(第一〇章教育の囲み記事参照)のように伊達藩の奉行衆一覧を備え、遠く高野山へ旅して茶盃を献じたほどの裕福な商家の歴史は、ほぼこの時期にまでさかのぼると推定されるからである。カツオ節の製法が本町に伝わるのもはっきりした証拠はないが、安永に近いこの期間内のことであろう。大飢饉の影響が内湾沿岸地区で比較的薄いのは、離島部とともに経済的に恵まれていたためかもしれない。本町では唯一農業の比重が大きかったと考えられる万石浦沿岸部の人口半減を見るにつけても、この感が深い。 この資料が、将来もっと深い考察によって、女川町の歴史に新しい知見が加えられるために役立つことを期待する。 ☆「女川タイムス」 国民の心が、敗戦のショックによる虚脱状態からようやく立ち直りかけた昭和二十四、五年ころから三十年代前半にかけて、日本国中辺地に至るまで、青年を主役にした文化活動が急速な盛り上がりをみせた。食糧事情がまだ好転していないこともあって、疎開した知識人、あるいはその家族が地方にかなり残っており、この活動を支援し、指導した。人々は戸惑いながらも、初めて手にした思想、表現の自由と、これを保証する民主主義につ 548
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