女川町誌 続編
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翌日(平成二年九月六日)、さっそく市史編さん室を訪ね、目を通させてもらった。六冊の和綴じの戸籍簿は、内四冊が本町分である。藩政当時の「当人数御改帳」とそう変わらない簡潔なものであるが、町内の人口分布、人口構成を知るには不可欠な、貴重な資料である。 明治七年(一八七四)といえば、廃藩置県によって発足した県制がまだ固まらず、玉造、登米、栗原、本吉の諸郡と、志田郡の一部が磐井県(水沢県を改称)に属していた時期であった。 本町は第七大区、小六区で、渡波に事務所があった(『女川町誌』には、明治九年の大小区制の記述があり、そこでは第五大区、小七区とされる)。その区長が松田常吉である。数十年前、松田家から石巻市立図書館に寄託された、柳ごうりいっぱいの書類があって、未整理のまま眠っていたらしい。それが、三宅氏らの調査でようやく日の目を見ることになったわけである。 本町の人口動向を見る資料としては、もっとも古いものでは、江戸末期の「当人数御改帳」が残っているが、これらに同時代の全町をカバーするものはない。この点では今回発見された戸籍簿が最古であり、本町にとってその価値は測り知れないものがある。 次項は、この戸籍簿の発見によって初めて可能になった、過去三百年の本町人口の百年毎の推移についての簡単な考察である。 なお、この戸籍簿のコピーは生涯教育センター内図書室で閲覧(館外持出禁)できるので利用されたい。 ☆江戸時代中期から明治初期に至る女川町人口の推移 本町人口の推移を見るための資料としては、明治九年に浜野弥左衛門(江島の人、当時四十四歳)の筆写によって伝えられる『牡鹿郡萬御改書上よろずおんあらためかきあげ』(以下『書上』と略称)がもっとも古い。蓋(表紙)には「元禄拾壱年五月十一日」とあり、安永以降の「風土記御用書出」の 541
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