女川町誌 続編
55/596

花・鳥・魚の制定(五十六年)、出島の運動場造成、高白分校校舎の新築(五十七年)、江島診療所の改築(五十八年)などがある。 広域行政関係では、石巻消防署女川分署から女川消防署への昇格(五十七年)があり、国関係では県道女川・志津川線の国道三九八号線への編入昇格(五十七年)があった。また、宮城県住宅供給公社の手で昭和五十五年三月から造成が始められた旭が丘団地が完工し、五十六年十月、第一回の分譲募集が行われ、五十七年三月に入居を開始した。なお、同団地は五十九年、未分譲の八九区画を町が公社から引き取って現在も分譲を継続中である。 木村前町長の逝去に伴う町長選挙は有力三候補による予断を許さぬ激戦となったが、昭和五十八年六月十二日の投票で、三十六年ぶりの新しい町の顔として須田善二郎町長が誕生した。須田町長は木村前町長の路線を継承しながらも、気さくな人柄と若さあふれる行動力で町民に清新の気を与え、特に青年層の自主的な諸活動が促進される契機をつくった。この年の十二月、公設民営の歯科診療所が開業し、順番札を得るために早朝から列をつくるといった現象はほとんど見られなくなった。 昭和五十九年には須田町政の指針と展望をまとめて、「新町勢発展計画基本構想」が策定され、二十一世紀へ向けての女川町の進路が示された。六十年四月、女川町地方卸売市場の新管理棟が完成し、漁港としての発展の道もいっそう広げられた。八月には原発周辺の空気中放射線量測定データ表示盤が庁舎内町民の部屋に設置され、九月には交通事故ゼロ九〇〇日間を達成、県警本部から金賞を受賞した。五十九年一月にオープンした総合体育館を中核とする総合公園の青写真もいよいよ具体化されて、用地造成に着手した。 23

元のページ  ../index.html#55

このブックを見る