女川町誌 続編
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以上のような時代背景の下で、本町では原子力発電所の建設が順調に進められていた。昭和五十七年九月には女川町議会が原発増設の促進を決議し、東北電力もこれを受ける形で同年十二月、女川・牡鹿両町に対して二、三号機の増設を申し入れている。五十八年十月、初臨界に達した一号機は徐々に出力を上げ、五十九年二月十七日、一〇〇㌫を達成、六月一日から営業 運転に入った。これに先立つ五十八年一月の町長選挙で十選を果たした木村主税町長は、当選直後身体の不調を訴えて入院していたが、五月四日ついに不帰の客となった。町百年の繁栄の基盤と考え、心血を注いで誘致に努めた原発の運転開始を目前に急逝した故人の胸中は察するにあまりある。町民は深い悲しみを胸に、町葬をもって故人に別れを告げ、町議会は第一号の名誉町民に推戴し、その遺徳をたたえた。六十年三月に建立された木村町長の胸像は、生前の温顔そのままに、役場庁舎前で女川町の将来を見守っている。 いわゆる電源三法のひとつである「発電用施設周辺地域整備法」に基づく諸施設は、昭和五十五年度から相次いで着工あるいは購入され、五十六年の勤労センターをはじめとして、広報無線、女川町保健センター、生涯教育センターが五十七年に、消防ポンプ車一台及び動力ポンプ積載車九台が五十八年に、町民総合体育館が五十九年に、それぞれ利用開始されている。 昭和五十六年から五十八年にかけての木村町政最後の三年間の主な事業を拾い上げると、町民憲章及び町の木・ 22

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