女川町誌 続編
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⑸ 昭和五十六年(一九八一)~昭和六十年(一九八五) 「北方領土の日」が設定され、中国残留孤児団が肉親捜しに初めて来日した昭和五十六年は、わが国民に戦後がまだ終わっていないことを改めて認識させる年となった。行政改革と財政再建を重点政策に掲げた鈴木内閣による第二次臨時行政調査会は、「小さな政府」「増税なき財政再建」を目標に、老人医療無料制の廃止、公共事業費の抑制、公務員給与の抑制と定員削減、電電公社や国鉄の民営化など、次々と重要な政策提言を答申した。 第二次石油ショックを技術革新と省エネルギーで乗り越えたわが国経済は、このころから安定成長の時代に入ることになるが、こうした中で、五十七年六月、東北地方の人々が長い間待ち望んだ東北新幹線の上野・盛岡間が開通し、続いて十一月には上越新幹線も開業を迎えることができた。 教科書問題の弁明のために、中国を訪問した鈴木首相が、帰国の直後突然退陣を表明し、昭和五十七年十一月、中曽根内閣が発足、以後五年に及ぶ長期安定政権が誕生した。中曽根政権下、政治的にはこれまでになく深い友好関係を誇った日米関係であったが、経済的関係は怪しい雲行きを見せ始める。工業製品の輸出増によって五十六年に黒字に転じたわが国の経常収支は年々増加の一途をたどり、特に対米貿易収支における黒字幅の急増は日米間の貿易摩擦を強め、米国から市場の開放を強く迫られるようになった。さらに、六十年後半になると、急激な円高ドル安の傾向が現れ始めて、世界的に不況に対する不安が高まった。 円高不況とはいっても、諸外国に比べれば経済的にはまだ繁栄の道を歩んでいたわが国も、校内暴力に代わって陰湿な〝いじめ〟が教育界を揺さぶり、サラ金問題の深刻化、一般消費者を巻き込んでのグリコ脅迫事件、五二〇人の犠牲者をだした日航ジャンボ機の墜落事故(六十年)など暗いニュースが人々の心に重くのしかかった。 21

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