女川町誌 続編
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小と時を同じくして、次第に強まってきたトラック輸送に押され、五十五年には国鉄女川臨港線が廃止された。この臨港貨物線は三十三年に開通し、石巻線をディーゼル機関車が走るようになってからも、しばらくは蒸気機関車の姿が見られて懐古趣味をくすぐったものであった。同年末のクリスマス台風では塚浜漁港を主として多数の小型漁船が転覆するなど、沿岸漁業、養殖業にかなりの被害が生じ、夏浜付近では県道が大きく決壊した。 こうした暗い話題や、前進したとはいえまだ尾を引く原発問題への不安を吹き飛ばすように、二つの快挙が相次いで町の名を高めた。昭和五十二年の女川一中野球部の東北大会制覇と女川二中女子ソフトボール部の東北大会準優勝がそれである。当時はまだ中学校の全国大会は行われていなかったが、この年の一中野球部のメンバーには、女川初のプロ野球入りを果たした中条善伸君(投手)、東北学院大主将として活躍した木村昭義君(内野手)がおり、一中チームの実力は全国レベルでも第一級であったことをうかがわせる。また、石巻工業高校在学中にラグビー全日本高校選抜のメンバーに選ばれ、イギリス遠征に参加した木村和彦君(浦宿)は、明治大学ラグビー部主将として五十五年度全日本学生選手権の獲得に貢献した。女川三小の校舎新築(五十三年)は、この期間における町事業の最大のものである。 20

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