女川町誌 続編
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西八〇㍍×南北五〇㍍の範囲で館跡の遺構が残っている。南東側斜面は崩れやすい崖になっており、住宅が近接しており、西側斜面周辺は海が迫っている。 東北電力の鉄塔移転に伴い平成元年七月に県文化財保護課が発掘調査を実施した。その結果、三段の平場が構築されていて、本丸・二の丸とみなされる平場や通路状の平場があることが確認された。また土壙どこうなども検出されたが、時期や性格は不明である。遺物は縄文土器が数点採集されている。 県報告によれば、館跡の年代や性格については南北朝時代あるいは戦国時代に葛西かさい氏や末永氏とのかかわりで利用された可能性があるとしている。 〔時期〕縄文時代、南北朝時代あるいは戦国時代 文献 紫桃正隆『史料 仙台領内古城・館』第二巻(一 九七三) 藤沼邦彦・小井川和夫他『日本城郭大系三』宮城 県(一九八一) 宮城県教育委員会『大貫館山館跡ほか』館崎館跡 (一九九〇)宮城県文化財調査報告書第一三七集 484

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