女川町誌 続編
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と仙台新駅舎の完成(五十二年)、仙台市地下鉄工事の正式免許(五十五年)が数えられる。昭和五十二年には県人口が二〇〇万を突破し、東北地方の中核県として、県勢発展への期待がいっそう高まった。 昭和五十一年に町制施行五十周年を祝った女川町は、一月二十三日の臨時町議会で、原発建設の促進を組み込んだ町勢発展基本構想を可決した。東北電力の要請を受けて、放射能漏れの監視体制や漁業補償などについての話し合いに応じることになった女川町漁協は、五十二年十一月の臨時総会で建設への同意を可決、この総会で否決された漁業権の一部喪失についても、翌年八月の臨時総会で承認を議決して、原発建設の前途は急に明るさを増した。ところが、東北電力と牡鹿・女川両町の各漁協との間に次々と補償協定が締結され、建設工事の着工を目前にした五十四年三月、米国スリーマイル島での原発事故発生が伝えられて、安全対策への見直しが強く求められることになった。県は原発建設に関する許認可申請受付を保留し、国に対して対応策の速やかな措置を要請し、女川町長も東北電力に対し、国の明確な安全対策が示されるまで建設には慎重に対処するよう要望書を提出した。六月二十五日、通商産業大臣から県に対して、安全性確保の決意と対策が回答され、これを了とした県は翌日から許認可申請の受け付けを再開した。東北電力は九月三日建設準備工事に着手、十二月十五日には原子炉建設基礎工事を開始して、計画発表以来十数年を経て女川原発はようやく現実のものとなった。五十五年には、宮城県原子力センターが完成し、県の安全監視の拠点として、また原子力発電の啓蒙施設として活動を始めた。 この時期、わが町では、日本水産女川捕鯨場の閉鎖(五十二年)という、ひとつの時代の終幕を象徴する出来事があった。昭和二十五年以来町民に親しまれてきたキャッチャーボートの姿が見られなくなった今、鯨の解体時には市街地まで漂い流れて眉をひそめさせた悪臭さえも、一種の懐かしさを伴って回想される。日本水産女川工場の規模縮 19
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