女川町誌 続編
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の大地震であった。津波を伴わなかったのは不幸中の幸いで、震度五の強震を記録した仙台市を中心に、県下で死者二七人、負傷者一万九六二人、全壊家屋一三七七戸に上る大きな被害が出た。石巻地方は震度四の中震で、沖積層のない本町では家屋の損傷こそなかったものの、埋立造成地帯である女川・鷲神の商店街では、瓶詰めの食品、陶磁器などの落下による被害があり、養殖業関係でも相当の被害があった。 頑強な反対闘争で二か月の延期を余儀なくされた成田新国際空港がようやく開港にこぎつけたのはこの年の五月である。今も隆盛を続けているカラオケやジョギングが普及し始めたのもこのころからといわれる。 昭和五十四年、第二次石油ショックに対処するため、東京で開催された第五回主要先進国首脳会議は、各国の石油輸入量に上限を設定した。EC委員会の対日戦略基本文書に見られた、日本人の住宅は「ていのよいウサギ小屋」という意味の記述が報道され話題となったが、発展を続ける経済大国日本に対する欧米人の痛烈な皮肉といえよう。 昭和五十五年、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、わが国も第二十二回モスクワ・オリンピック大会への不参加を決めた。この年の夏の異常低温は七八年ぶりといわれる記録的なもので、これに長雨が重なって、農作物は大きな被害を受けた。国内政局も不安定で、前回の総選挙から一年を経ないで衆議院が解散され、衆参両院の同日選挙が実施された。この選挙戦の最中、大平首相の急逝という異常な出来事もあったが、結局、自民党が大勝して絶対多数を制することとなり、鈴木善幸内閣が生まれた。久しぶりの東北出身の総理であった。わが国の自動車生産台数がアメリカを抜いて世界第一位に飛躍したのもこの年であるが、一方では、家庭内、学校内での暴力事件が頻発し、経済的繁栄のもたらした社会のゆがみとしてやかましく論じられ始めた。 この五年間、宮城県では交通関係のニュースが目立った。仙台市電の廃止(五十一年)、国鉄気仙沼線の全線開通 18
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