女川町誌 続編
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へと動き始めていた。昭和四十六年には牡鹿町寄磯・鮫浦・前網の三漁業協同組合が建設を認め、四十七年には山本宮城県知事が本町と雄勝へ足を運び、泊まり込んでの説得を行うなど、この問題に対する県の積極的な推進への姿勢が示された。四十九年に至って女川町漁協五部浦地区支部が一部の組合員を除いて賛成に回り、町漁協の内部には話し合いへの気運が高まっていった。さらに、五十二年には県水産林業部と女川町漁協とで構成された原発問題研究会が発足して、先進地の視察と調査が行われるようになると、漁協の大勢は急速に建設承認へと傾斜する。 この間、町は、昭和四十六年、石巻高等学校女川分校校舎の新築に着工、四十八年四月、念願の県立全日制高校としての独立を実現した。また、塵芥じんかい焼却場の建設(四十六年峻しゅん工)、江島簡易水道工事の完成(四十七年)、塚浜・小屋取両漁港の整備事業の完了及び第四保育所の開設(五十年)など各種の事業が進められたが、中でも最大の事業は町役場新庁舎の建設(四十六年~四十七年)であった。大正十三年に建てられた木造旧庁舎(『女川町誌』口絵参照)の老朽化は見る者の目を覆わせるものがあり、他の市町村が次々と新庁舎の建設の進める中にあって、町の顔としてふさわしい新庁舎の建設は早くから全町民の切実な願いとなっていたが、相次ぐ火災で焼失した第四小学校、第二中学校(三十七年二月)及び第一中学校の校舎新築のため延び延びになっていた。懸案であっただけに、四十七年十月の新庁舎の建設は町民にとって大きな喜びであった。 県営牡鹿半島有料道路(コバルトライン)も昭和四十六年に開通し営業を開始した。本町を起点として牡鹿半島の背骨に当たる山並みの尾根伝いに、半島先端の山鳥渡わたしに至るこの道路は、金華山観光の新しいルートとして本町でも大きな期待を寄せ、その開通を祝った。しかし、車の通行台数は予想されたほどには伸びず、本町は通過地として観光面では格別の恩恵を受けるまでには至っていない。夏の観光シーズンには石巻から定期観光バスが運行されている12

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