女川町誌 続編
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うと考えている。方孔石(写真Ⅰ)はある鉱物が他に変質し、溶解した後も空洞に結晶の形を残すもの、鉱物学でいう仮晶であるとされているが、原鉱物が何であるかは、まだはっきりしてはいない。 後に植物基因説や、化石説も出されたようだが、大筋では大築説を定説と考えてよい。ただ、玄能石の成因が十分解明されていない現在、方孔石もまた依然としてナゾの石である。その分布も非常に狭く、「石(昭和雲根誌)」(益富寿之助)にも現代の奇石として紹介されている。 大築氏以後三〇年近くも世に忘れ去られていた方孔石であったが、昭和四年(一九二九)北海道大学の都生氏の現地調査により、中生代(ジュラ紀)の凝灰質頁けつ岩層中に含まれることが判明した。 さらに三〇年を経た昭和四十一年(一九六六)、当時高校生であった野越修が山形県戸沢村の砂子沢で泥質砂岩中から新生代の方孔石(写真Ⅱ)を発見して話題となった。 これより少し前になるが、本町出島の四子館貝塚発掘調査の際、かなりの数の方孔石が出土したことから、縄文時代の人々がこの石を漁業用のおもり、又は装身具として使用していたことが推測される。 最近になって女川高等学校科学部が昭和五十五年(一九八〇)から七年間にわたる継続研究の主題として方孔石を取り上げ、粘り強い研究を続けてきた。その成果は同六十二年一月第三〇回日本学生科学賞一等賞受賞の栄誉として実った。同校科学部は、県内は言うに及ばず、新潟県・山形県へと広く玄能石、方孔石を求めて巡検し、砂子沢では方孔石を産出する地層に玄能石が共存することを予想させる事実や、穴に原鉱物を残す石を初めて見つけるといった貴重な発見があった。部室に戻っては、穴に活字合金を流し込んでの形状観察、計測など定量的研究にも新しい道を開拓した。 398

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