女川町誌 続編
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「勇蔵日記」については『女川町誌』八一二㌻に詳しいのでここでは省略するが、チリ地震津波による被災でひどい損傷を受けた。昭和五十八年、照源寺住職三宅太玄師が私財を投じて、その活字化を図り、頭注を付け、さらに巻末には全文の写真を添えて自費出版し、研究者の便に供している。 ⑵ 横浦の木村家がまつる三十三観音像及び所蔵の古文書 横浦の木村家(旧大肝入きもいり)については『女川町誌』第三編「女川町の旧家」に詳しいが、同家が屋敷内に御堂を建ててまつる三十三観音像及び所蔵古文書についての記述は見当たらないので、昭和五十四年の女川町文化財保護委員会「文化財だより」により、概説する。 同家に伝わる観音像は延享元年(一七四四)、木村五郎左衛門吉元が銚子で求め廻船かいせんで運んだものと伝えられる。延享三年に建立した堂内には本尊(阿弥陀如来)を中心に左右二段に三三体の観音像(高さ三〇~四〇 センチメートル)が配置されている。鎌倉時代の作と推定されるが、昭和五十年ごろ、全像に金粉を塗ったため、外形による様式でしか年代の推定はできない。同家では毎月、一日、十五日、二十七日の三度、欠かさずご飯を供えて供養している。 同家には守り本尊として、仏壇に釈迦牟尼仏像をまつっているが、金箔きんぱく塗りの厨子ずしに納められたこの像も、三十三観音像と同年代に木村家に伝えられたといわれている。 木村家以前に大肝入を務めた女川の丹野家の古文書が、宮城県立図書館所蔵の『安永風土記』以外はほとんど散逸しているのに対して、木村家にはかなりのまとまった古文書(近世文書)が保存されており、昭和五十四年、町文化財保護委員会がその目録を作成した。昭和六十年、同委員会は木村家当主木村慶紀の好意でその全部のコピー作成の許可を得ることができ、現在、コピーは教育委員会社会教育課に保管されている。これを機に、遠藤福栄(女川)を 396

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