女川町誌 続編
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府は「公害対策基本法」を制定した。このころ、全国各大学に波及した学園闘争は、四十三年の東大安田講堂占拠事件を頂点として、四十四年前半まで続く。また、経済の高度成長は都市への人口集中を招き、地方は過疎に悩まされることになった。本町も四十一年をピークに人口は減少の一途をたどり、その傾向は今なお続いている。特に離島では、過疎に加えて高齢人口の比率が急増し、集落の存亡にかかわる深刻な事態に立ち至っている(図1参照)。 この時期の本町魚市場魚種別水揚げ高を見ると、カツオ・マグロ類がまだ総水揚げ高の五〇㌫台を維持しており、やがて襲いかかる石油ショックの嵐を前に、遠洋漁業の好況が続いていた。伝統的地場産業であったカツオ節製造も衰退の色を濃くしながらも辛うじて従来の地位を保っていたようである。日本水 産女川工場がラーメンの製造を開始したのは昭和四十年で、四十三年の製造中止までわずかの期間ではあったが、同工場の活況が町の経済全般にわたって与えた波及効果は極めて大きかった。 昭和四十二年四月、東北電力初の原子力発電所建設の適地として、宮城県は本町小屋取地域を選定、公表した。ここに、本町は百年の将来にかかわる重大な選択に直面することになる。木村町長は、県が適地選定作業を始めた段階 6

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