女川町誌 続編
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日本水産㈱女川工場も拡張期に当たり、港内狭しとへさきを並べたキャッチャーボートの勇姿は、今なお多くの町民の記憶に鮮やかなはずである。こうした町の活気を反映して、人口も着実な増加を示し、四十一年二月には史上最高の一万九一二六人を記録した。 ⑵ 昭和四十一年(一九六六)~昭和四十五年(一九七〇) 東京オリンピック大会後の不況も、ベトナム特需などにより昭和四十年末から回復の兆しを見せ、この五年間に平均約一一・六㌫という驚異的な実質成長率を達成した。四十三年にはGNP(国民総生産)で自由世界第二位と飛躍し、わが国は経済大国としての地位を固めた。この時期のあるアンケート調査によれば、主婦の九割近くが中流意識を抱くようになったという。四十五年の日本万国博(会場・大阪市)の開催はこうした国民の自負を内外に示す祭典であったといえる。 反面、急速な繁栄に伴うひずみも表面化し始めた。昭和四十二年、富山県で発生したイタイイタイ病と呼ばれる奇病が工場廃水を原因とすることが指摘されると、公害病、環境汚染への対策を求める世論が高まり、これを受けて政 5

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