女川町誌 続編
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ことは町民のコンセンサスも得難い。南極観測船「ふじ」の引退の際にその誘致が町議会で決議され、青函連絡船の廃止に当たっても町民有志から誘致の陳情が行われたことがあった。そこに表された危機感は意義もあり、理解もされながら、実現に至らなかったのは、町民の自主活動を基盤として行政がこれをバックアップするという、観光振興のあるべき姿に由来する行政の側の限界を示すものと思われる。 われわれに今できること、しなければならないことは、先入観を排してこの町を見直し、他に誇れるものを掘り起こすことであろう。「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず、食らえどもその味わいを知らず」という名言がある。慣れっこになった目には何の変哲もないもので、実に意外な価値を持つものもある。そうしたものに目を開き、観光の目玉として育て上げていけば、道は自ら開けていくはずである。実際、こうした新鮮な感覚を持ち続け、本町観光の開拓に大きな足跡を残した人もいる。万石浦観光ホテルの創業者として知られ、町会議員として在任中に亡くなった梶原力氏がその人である。 専門家の間にさえ「リアス式海岸美といっても、これによって観光客の誘致が期待されるほどのものではない」とする考えがある。これに対して梶原氏は、「ある程度の施設の充実があれば、観光客を誘致できるだけの自然景観は探せばある」との信念を抱き、実践によってそれを証明した人である。「たとえ自分の始めた事業が失敗に終わっても、築いた基礎はこの町の発展に役立つはずだ」という言葉を口癖のようにしていたという。万石浦観光ホテルの経営から身を引いたあと、氏が再びホテルの建設を目指して敷地の造成に着手した崎山公園上方高台に立つ人で、氏の目の確かさと情熱に心を打たれない人はないだろう。この高台からの眺望の素晴らしさは、東京の実業家某氏に梶原氏のバックアップを決意させた一事が雄弁に物語っている。氏の死亡によって中断された事業は、形は変わっても、町内 286

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