女川町誌 続編
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る。 1 沿革と局舎位置の変遷 明治十二年二月十日の発足当初の名称は「女川郵便取扱所」、宮城県では八一番目の開設になる。局舎の位置は女川浜字女川一〇二番地、現在の村井医院と道を隔てたところ にあった。明治三十八年四月一日、三等郵便局「女川郵便局」と改称され、その後局舎は大正十二年、鷲神浜字堀切山四七番地に、同十四年には、すぐ隣の四九番地に移転している。 昭和八年三月三日の三陸大津波で被害を受けたため、翌九年同地に局舎を新築したが、昭和十三年十二月三十一日の火災(『町誌』では十四年一月一日とあり、火事の発生は大晦日おおみそかの深夜と推定する)で類焼、昭和十四年四月、黄金町六八番地に局舎(授産所「うみねこ学園」が現在使用中の建物)を新築、移転した。昭和四十年代に入ると局舎前は、車交通量の増大、トラックの大型化などによって次第に交通事故の発生しやすい地帯になり、また、女川から石浜へかけての市街化が進むにつれて、町民の利便という点からも不満の声が聞かれるようになった。たまたま、映画館であった女川会館が閉鎖されることになったのを機に、これを買収して昭和五十年八月着工、翌五十一年三月に竣工しゅんこうしたのが現在の局舎である。 278
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