女川町誌 続編
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後背地の中核都市石巻との道路交通は、昭和四十年十一月に県道女川・石巻線の舗装が完了して、自動車による物資輸送の便は一段と向上し、この時期から自家用車の保有台数も直線的に増える。全国的にはすでに交通事故が大きな社会問題となっており、町も四十一年十一月十四日、町条例を制定して女川町交通安全指導隊を発足させた。また、四十五年八月には本町発初の交通信号機が旧電報電話局前に設置された。 以後、昭和四十六年に牡鹿半島観光開発の起爆剤と期待された県営牡鹿半島有料道路(コバルトライン)が開通し、五十一年には老人ホーム「万生園」の横を通る県道稲井・沢田線が改修され、女川・石巻間のバイパスとして利用されるようになった。また、拡幅が困難なため悩みの種となっていた国道三九八号線の鷲神・女川間市街地部分の混雑も、六十一年六月の、コバルトラインに接続するバイパスの完成によって、緩和が図られた。 一方、離島について見ると、江島は昭和四十二年十二月の海底電線敷設による送電開始、四十七年の上水道工事完成、五十三年の離島開発センターの完成、五十八年の診療所の改築と医師の常駐診療の再開等によって、島内での生活は著しく向上し、定期航路も一日二便となったが、荒天時に本土との交通が途絶するという事情は今も昔と変わらない。 最小幅わずか三〇〇㍍足らずの瀬戸で本土と隔てられる出島も、昭和三十八年の町道出島・寺間線の県道昇格、四十二年の上水道による給水開始、五十九年の出島総合開発センターの竣しゅん工と、生活環境の整備では江島にやや先んじたが、本土との交通は旧態のままであった。 「橋があったら!」の思いが口にされる一方では、平和な島の生活への愛着と誇りも強かった。迷い続ける島民に「架橋によって島を守る」の決断を迫ったのは、押し寄せる過疎化の波であった。昭和五十四年八月十一日、全島民 276

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