女川町誌 続編
300/596

しなければならない障害は予想以上に手ごわいものであった。海の産物であるカキの殻からはまず塩分を除去しなければならない。投棄後三、四年を経たものを使用すればよいことを、知ってしまった今となれば、何でもないことであるが、そこに気づくまでには辛い試行錯誤の時期があった。粉砕の仕事につきものの粉塵公害の防止も重い課題であった。そして最も厳しい問題として、販路の開拓が残った。 一〇年の準備期間を経て、エンジンを動力に、プーリーには自転車の車輪を使うといった手作りの機械設備で操業にこぎつけたのは昭和三十五年、チリ地震津波発生の一週間前のことであったと氏はしみじみ述懐する。元手は両親を説き伏せて出してもらった六〇万円、一日の生産量は五〇㌕詰めで三〇袋とささやかなものであったという。 当初、製品は飼料用で粒状だったが、鶏卵の大量生産が始まり価格が下落したので、昭和五十六年からは粉状の肥料に切り替えている。用途の変更には、新たな販路の開拓がなければならない。席を暖めるいとまもなく、各地を飛び回って天然総合ミネラル肥料の利点を説く日々が続いた。ようやく、その真価が認められ、今は居ながらにして生産を上回る需要に追われるといった状態である。最近、無公害、全自動式の新鋭機を導入し、生産量も日産二〇㌕詰め一五〇〇袋と大きく伸び、さらに今後の成長が期待されている。 苦学して東京帝京大学に進学し、アラビア石油(株)で活躍した千葉龍三郎氏、黒真珠の小松金一氏、そして千葉和郎氏と、情熱的開拓精神を持った異色の人材が北浦から輩出している事実は単なる偶然ではあるまい。北浦にはそうした人物を生む風土的、歴史的背景の存在が感じられる。 ☆宮城県開発(株)女川町採石事業所の採石場拡張 県の第三セクター、宮城県開発株式会社(創立昭和四 268

元のページ  ../index.html#300

このブックを見る