女川町誌 続編
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った。ただし、この場合本町では原石の供給にとどまり、研磨と枠付けは雄勝町で行ったようである。ちなみに、石盤はわが国でも昭和二十年代までは小学校低学年の筆記練習用として使用されており、蠟ろう石せきの石ペンの感触を思い出す人もまだ多いであろう。 戦争で中断された石盤の輸出は、戦後はイギリス・ドイツなどとの競争に敗れ、国内で玉突き台として脚光を浴びたこともあるが、屋根材にトタン板が普及し、やがて瓦かわらが重用されるようになるにつれて需要が減じ、石山は次第に閉山されていった。雄勝町の玄昌石に比べて軟質で灰白色がかった本町産の石は敷石などの用途には向かず、約半世紀にしてその歴史を閉じたことになる。 ☆ポゾラン工場 閉山したスレート山の廃石を粉末にし、セメント混和材として製品化されたのは昭和三十三、四年のことであるが、その利用を考え付いた最初の人の名は分からない。地元の阿部寵二氏、佐藤元治氏と、東京に本社のあった日本礦業(株)が相前後して、石浜に工場を建て、製品は「女川ポゾラン」の名で知られるようになった。 ポゾランはセメントの通水性を弱め、固結性を高めるのに効果があるということで業界の注目を集め、将来性を期待されながら、昭和三十六年には日本礦業が、四十年には佐藤氏が工場を閉鎖している。その原因が経営にあったのか、製品にあったのかは不明であるが、その後も東海周一氏ら地元の人々の手で、石浜、御前に工場が建てられ、つい最近まで操業が続けられていたことから考えると、需要は続いていたと思われる。 一方、阿部氏の創設した工場は、昭和四十年ごろ、東京の興産工業(株)に引き継がれたが、四十三年、大雨による出水で浸水し、ポゾランが流出したため、住民から非難の声が上がり、その二年後に閉鎖された。 ポゾランは、工業技術院地質調査所の地域地質研究報告「石巻の地質」にも記載されている町の特産品である 265

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