女川町誌 続編
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別の百分比(表2)を見ると、単にカツオだけでなく、本町水産加工業の変容の跡をたどることができる。昭和四十年代後半からのカツオ冷凍の着実な伸びは、冷凍・冷蔵工場数の増加と並行するもので、より有利な時期を選んで出荷する経営の近代化への移行を語っている。反面、近代化のための投資に加えて、五十年代から一段と厳しくなった公害規制によって、排水の水質改善設備が必要となり、資力の差による業者の淘汰とうたが目立った。 昭和三十年代には缶詰加工もまた町の発展を担うものと期待されていた。昭和二十八年女川第一中学校が文部省の産業教育研究校に指定された際、水産実習室を新設し、その中核施設に缶詰製造機を導入したことにも当時の町がこの分野に寄せた大きな期待がうかがわれる。しかし、消費者の嗜好しこうの多様化が進むにつれて激しさを増した中央大手資本の新製品開発競争と経営戦略の中に埋没して、宮城缶詰、山七缶詰の二工場が閉鎖に追い込まれ、六十二年には山ヨ缶詰が操業を停止することになって、本町の缶詰加工もついに終止符を打つに至った。 現在の本町の水産加工業は、冷凍・冷蔵を主軸にして、乾燥、スリ身、塩蔵などの製品を生産しているが、この業界もまだまだ厳しい環境にあるといえる。こうした中で、町内各漁港で現地産のワカメ・コンブなどが塩蔵、乾燥といった加工品として製産されるようになったことは、幾分でもへき地の過疎化傾向に歯止めとなればと期待される。 ☆女川水産加工業協同組合水産加工開放実験室 若い人々の魚離れがいわれるにつけても、水産加工業における新製品の開発は急務として認識され始めたが、その推進は後継者の研修に期待するほか道はない。女川水産加工業協組青年部は早くからこの危機に目覚め、積極的な活動を展開してきた。その積極性が県の認めるところとなり、昭和五十六年県は単独事業として同組合に付属する開放実験室を建設することになった。塩釜につぐ県下第二番目の開放実験室である。予算五〇〇〇万円 238

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