女川町誌 続編
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その後、種苗生産や輸送技術上の問題が好転するまで、ホタテガイの移植は中断されていた。やがて北海道サロマ地区、噴火湾あるいは陸奥湾における採苗技術の確立があり、輸送機関の整備が進むと、昭和三十六年から三十八年にかけて唐桑町舞根の畠山司氏がサロマ湖から稚貝を鉄道輸送しての養殖試験を行い、これが成功を収めた。 昭和三十九年になると、トラックによる稚貝の大量輸送の道が開かれ、養殖法もネット養殖、耳づり養殖などの試行錯誤を経て、カキと同じ木製笩や、延縄はえなわ式といった現行の方法に近くなる。女川湾でホタテガイの養殖が始まったのはこのころのことで、四十一年から出荷が始まり、五十年まで出荷量は直線的な増加を示す。一方、気仙沼・志津川の両湾で四十七年、四十八年に稚貝の大量斃死が起こり、これを境にホタテガイ養殖の中心は雄勝・女川湾などの県中部地区に移ることになった。 ホタテガイ養殖の急速な普及の原因としては、第一に種苗の需給関係が挙げられるが、ほかに、本県の内部事情として漁場老化等に伴うカキの生産低下、労働力の問題、ワカメ養殖の裏作となる点などが強く影響したと考えられる。 本町のホタテガイ養殖も昭和五十年の春から夏にかけて、青森県平内漁協及び岩手県釜石東部漁協から購入した稚貝が大量に斃死するという事件があり、また五十四年には貝毒問題が起こるなどして漁家は手痛い被害を受け、それに過密化の傾向もあって経営体数は下降の一途をたどっている。 なお、ホタテガイに限らず他の養殖についても言えることであるが、経営体数の資料に延べ数のもの(一漁家が養殖する種別を重複して数える)と主体とする種別を数えるものとあって、しかもそれぞれを一貫して収集することができなかった。そのため、養殖種別の変遷を一覧できる図表を作成できなかったことは残念である。 221
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