女川町誌 続編
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第一七次漁期以降であるが、このころから総捕獲枠の縮小が急速に進められ(表1)、わが国捕鯨界は深刻な打撃をこうむることになる。この間の事情は、昭和三十八年の網走・釜石、四十年の仙崎、四十三年の釧路、四十五年の大島・富江と相次ぐ日水捕鯨事業場の閉鎖が雄弁に物語っている。 さらに追い打ちをかけるかのように、昭和四十七年の国連人間環境会議は「鯨を守れずにどうして地球を守れるか」のスローガンを掲げて、捕鯨の一〇年間禁止(捕鯨モラトリアム)勧告決議案を採択した。同年の国際捕鯨委員会でこのモラトリアムは否決されたものの、動物愛護団体をバックにアメリカが旗を振る反捕鯨の国際世論は年を追って高まっていった。 第二七次漁期(四十七~四十八年度)からの鯨種別捕獲枠の設定、昭和四十八年のオイルショックと悪化の一途をたどる環境の中で、捕鯨六社間の捕鯨業統合合意に基づき、五十一年、日本共同捕鯨会社が設立された。これに伴って日水は捕鯨部を廃止、ついに女川捕鯨事業場も二十八年間の歴史を閉じることになった。昭和五十二年三月三十一日のことであった。 こうして、捕鯨と本町との直接の縁は絶たれることになったが、捕鯨問題のその後の経緯はわれわれの重大関心事であることに変わりはない。科学的裏付けを拒否する感情的動物愛護論者と、これに同調する非捕鯨国の圧力に屈した国際捕鯨委員会は、昭和六十年に商業捕鯨の全面禁止を決議する。さらに、調査捕鯨までもストップさせようと、アメリカは報復措置をちらつかせながら迫り、エスキモー人らに認められる生存捕鯨もわが国に対しては拒否し続けており、わが国の捕鯨は最悪の事態に直面している。 202
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