女川町誌 続編
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☆日本水産女川捕鯨事業場の廃止 本町と捕鯨の縁が絶たれてからすでに一〇年の歳月が経過した現在、捕鯨事業そのものが世界的に全面禁止され、姿を消そうとしている。戦後の復興期に唯一の誘致大企業として捕鯨事業が本町に及ぼした精神的、経済的効果には計り知れないものがあった。 日水(「日本水産株式会社」は、本文中では略称「日水」を用いた)女川捕鯨事業場は、わが国が国際捕鯨取締条約に加盟する前年、昭和二十五年に開設された。当時は捕獲の総枠を決めてその枠内では自由競争という、いわゆるオリンピック方式がとられていた。この方式は技術の点で他国に優るわが国にとってはかなり有利であった。昭和二十六年から三十三年までの八年間で日水の新造捕鯨船は一八隻を数え、釧路・紀伊大島に捕鯨事業場を新設するなど、捕鯨への日本の積極的な姿勢と熱い期待がうかがわれる。わが国捕鯨史上の黄金期に当たるこの時期、女川事業場には三十一年に砲手訓練所が併設され、処理頭数も日水総捕獲頭数のほぼ三分の一に達し、日水の六捕鯨事業場の中核的な存在であった。 やがて、国別に捕獲頭数を決めようという声が上がり、昭和三十三年十一月、当時の南極捕鯨出漁五か国(日本、イギリス、ノルウェー、オランダ、ソ連)の間で国別割当案が協議されたが合意に達することができなかった。 この結果、第一四次漁期(三十四~三十五年度)からは、各国が自主的に自国の捕獲頭数を宣言して出漁することになる。ようやく合意が成立して、国別割り当てによる操業が開始されたのは 201

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