女川町誌 続編
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じは大変温厚であるが内には常に厳しい道義感を秘めて居り、この性格は一生を通じて変わることがなかった。 幼少の時代から所謂悪事はこの人には無縁のものであり、この人が悪事をしたのを見たことはないし、又理由なく弱い者がいじめられているのを見れば敢然と救いの手を差し伸べるのが常であったので我々悪童達も子供心に我々とは格の違う人格者であることを認めて畏敬していたものである。中学校に進んだ後も級友から温厚な人格者として接しられていたことは小学校時代と変わるところがなかった。当時お互いに将来の抱負や進路等についても話し合ったものであるが、氏は最初から政治に関係ある仕事に興味があったわけではなく、ゲートルをつけて工事現場で指導をする姿を将来の自分の理想の姿として考えていたようである。 従って、昭和五年春仙台高等工業専門学校(現東北大工学部)の狭い門を突破して入学した時は、理想の実現に一歩踏み出した祝福されるべき時でもあった。しかし運悪く病魔に冒されて中退の止むなきに至り、数年間の闘病生活の後大きく進路を変換して昭和十三年九月女川町役場に職を求めたのである。 闘病生活は氏の将来の希望を破砕するものであったので内面の苦悩は計り知れないものがあったろうと思われるが、強い精神力でそれを支え外面には殆ど表わさなかったようである。小生は夏休みや冬休み等には任地から帰郷したのでその折には氏を祖父宅の奥座敷に訪ねたり、丸子山公園に誘い出したりして暗い闘病生活をいささかなりとも慰めるつもりで心ゆく迄話し合ったものである。氏は役場においては勿論有能な吏員として活躍し総務課長、助役と昇進したのであったが、昭和二十二年四月自治体の初公選に際会し衆望を担って女川町長に立候補することになり、有力な他候補達を凌いで町長の座を射止めたのである。それより昭和五十八年五月四日の逝去に至る迄連続して女川町長の座に在ったが、これはひとえに氏の卓越した人格力量によるものと思われる。 91
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