女川町誌 続編
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戦後の本町行政を述べることは、昭和二十二年(一九四七)から昭和五十八年(一九八三)まで最高責任者として町政を指導してきた故木村主税元女川町長の事跡をたどることであるといっても過言ではない。前例を見ない混乱の時代に、一貫して町民の信頼を維持し、今日の女川町を築きあげた氏の功績は筆舌に尽くせるものではない。 本章の冒頭に、同氏の生涯の友として交遊の深かった本誌編さん委員長佐藤春雄の追憶と木村主税の履歴を掲げ、その人柄をしのび、偉大な足跡への思いを新たにしたい。 ☆交遊を通して見た木村主税氏について 佐 藤 春 雄 為政者として木村主税氏が如何いかに偉大であったかは、東北地方では初めての十選を果たした町長であった事からも分かる事であり、その功績を数えれば枚挙に暇いとまがない程であるが、功績調書もあることなので、ここでは主として人柄を中心として述べることにする。氏は明治四十三年六月三日女川村女川浜の木村利助氏の長男として生まれたが、幼時に厳父を失い、母堂及び兄弟姉妹と母方の祖父木村政助翁の家に引き取られて、そこで成育した。祖父は石浜でスレート山を採掘して居り、小生宅の納屋を道具置場にしていたので朝夕立ち寄っていた関係から氏も時折祖父と共に小生宅に来たが、小生とはたまたま生年月日が四日しか違わず遊び相手にはもってこいなのでよく遊んだものである。当然小学校も同級生で一年から四年迄は女川分教場で学び五年から高等科一年迄は本校(現在の女川一小)で学んだし、更に共に旧制石巻中学校(現在の石巻高校)に入って同級生として暮したので所謂いわゆる竹馬の友の仲であった。従ってお互いに知悉ちしつし合っていたつもりである。世に栴檀せんだんは双葉より芳しというが、この言葉はよく氏を表現するに相応ふさわしい言葉で、氏は既に幼少年時代から将来の大器を伺わせる雰囲気を身近に漂わせていた。外柔内剛の人であって、接した感 90

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