女川町誌
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れてあつて、半日を要する道程の良やや堂山どうさん(爺谷堂山)である。 部落より約二百米で標高は八百米の山といわれている。全山花崗岩であるそうだが、屹立する大厳又は岩塊があるかと思うと大和尚の居住した大岩窟あり、樹木欝蒼として苔むし或は泉水が湧き或は大岩窟屋上三十坪位の大石上に十六羅漢の石像があつたり、全く仏蹟の仙境に入る感じのする所である。 地蔵堂の縁日は陰暦三月十日と六月二十四日で地蔵様と独国様を祭るという、差塩に来る前に藤滝という所に立寄つた。そこに二坪位の建物があつたそうである。独国はこゝで修業しようと、滞在すること数日に及んだが、いろいろな蛇が出て来てその前をのろのろ走りあるき、次第に膝の上にあがり懐中にも這入るようになつた。仙人のような境地に居る精神の独国には何等恐ろしくはないが、うるさくて困つた。そこで或日彼等に言つた。「なぜうるさくする、こゝは拙者のために適地ではない他によい所があるというわけか。今火をたくから左様な意ならば火の上を走れ」と。そして火をたいたら大小の蛇が火をニョロニョロと走つたので藤滝を去りこゝ差塩を選らんで来られたと伝えられている。 この地方の人達の信仰は実に深いもので、古い破れかけた大和尚の袈裟を箱に納めて、代々の区長が保管している。祭典は素より個人的お詣りでも、何かの用事があつても、この山に入る時は動物食はとらず必ず精進料理をとることになつて居り、我々の如き他所人も守らせられた。妊婦は必ず産前にお詣りすることも、固く守られているそうである。 松崎氏の家はその頃から独国様をお世話申上げて来たので、数々の書幅・硯・版木などの遺物も所蔵され、また三百年にもなるという古い大きい本宅、数々の附属建物もある広い構の農家である。 五、福島駅に於ける独国和尚 享和二年の或日身すぼらしい黒染の衣を着た雲水が、顔色青黒くやせこけて、今にも行倒れになりそうな姿で河原に日向ポッコをして居た。若者達がそれを見つけ事の起らないうちに、早く他地方に追い払うた方がよいと評議して居た。それを聞いた中年の男。「よしよしわしに任せて置けよきなにするから、無理はするな」と自ら其の場に行つて見た。「坊さんどうしてそんな所に居るんだ。こゝは人気の荒い所で若者達が坊さんに対して何か取り沙汰して居たが何も無いうちに隣邑にでも行かつしやい」と言つた。すると坊さんはいやいや私は何も悪いことをする坊主ではありません。今朝までお山(信夫山)に断食参籠して来たので今疲労を休めて居たところです。決して御迷惑はかけないからどうぞこのまゝ捨て置いて下さい」 と言つた。男は俄に態度を改め、「それはそれはすまない事を申上げました。左様なわけなら私の家の離れ座敷が空いているからそこに、お出でなさいと無理々々連れて来た。 」その男は私の家の先祖で、利作と申し坊さんは独国上人様であつたのです。それから私の家ばかりでなく、この地方の人々は深く帰依して教を受け、上人様は常に私の家を中心として各地に旅をされ、文政十三年五月廿一日私の家で入寂されたから女川に飛脚を立て女川からも来られて遺骨遺物を分けたのです。利作の長子与右エ門はお出掛けには必ずお供したそうです。平の閼伽井岳は地方917

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