女川町誌
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わかつた人が一人来て、その人の曰う所によれば「昔この寺にとても法力のすぐれた和尚様が居たそうだ。或年松川に大洪水があつたが急に水が引いてしまつたら川原に鮭が沢山ひあがつて村の百姓達はとても運びきれない。そこに通りかゝつたのがその和尚さんである。常に親しい和尚さんであるから、この鮭を運んでくれと賴んだら、和尚はなまくさ物に手をかけるものではないと拒絶された。そこで川原の藤蔓をとり、之れで結んで無理矢理頼んだそうである。後に和尚さんは川原に藤があるから斯様な迷惑をするのだ、宣しいこの藤をたやしてやると言つて祈禱したら川原の藤は絶えて、今もこのへんには殆どありません。此の和尚さんが独国という和尚さんだと聞いて居ます」ということであつた。 三、差塩に於ける独国和尚 平市高野満治郎氏の指示を参考とし、差塩の所在地石城郡三和村役場の涌井清水氏の誠に親切なる案内により平よりバスで約八里北上し、役場に近い根古屋橋で下車し、これより阿武隈山脈上の高原差塩まで徒歩約一里半もある。一里も歩いた頃より全く暗く、これはこれはと思いつゝ歩いていた。折しも動力耕耘機にリヤカーを付けて出迎えられ、夜七時頃無事当地の旧家で名望家、しかも大和尚のお宿であつた松崎与三郎氏の宅に着し、格別な厚遇にあずかつた。 差塩という部落は標高六百五十米の高原で農家が五軒、三軒と点々約百戸もある所で、小学校兼中学校の校舎が目立つ存在である。 松崎氏所有の山林内に地蔵堂がある。側の大岩窟に昔僧丹心 が開基したが、火災の為めに荒廃したのを寛政年中宮城の僧独国なるものが来て、之を中興開山したものであると郷土誌に記されてある。 又この岩窟より百米ばかり登れば、花崗岩の岩面に大和尚の自画像と称せらるゝ浮き彫りの 坐像がある。実人物よりは少しく大きい。その側に一字一石が 小山をなして、お礼参りの多かつたことを物語つている。又肖 像に相対して巨牛の横臥したような石がある。こゝに福島駅中 町塩駅無涯敬書、信夫郡石工森山庄右エ門、文政十三年庚寅仲 秋という碑文がある。苔むして読みにくいから写記してあるも のを写して来たが、独国の学殖・思想・出生・死所等を知る上 に誠に大切無二の文献で、約八百字位はあろう。その中に詩と いうか偈というか遺作が十五首も収めてある。自画像の下に福 島の利作が骨を持つて来て埋めたという。利作とは塩沢無涯の ことである。こゝから上は所謂三十三観音が山の周辺に建てら 916 差塩の岩窟(福島県)

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