女川町誌
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たものかということである。 二、沢又邑に於ける独国和尚 光徳寺住職小池正孝師の語る所によれば、独国和尚は住職ではなく暫く寓居して居たらしい。誠に質素であるが地方の信望が厚かつたそうで、特に祈禱がすぐれて居て ㈠或年旱魃のためこの寺から数丁南の小池に於いて、村人が雨乞をした。神職数名熱誠をこめて祈禱したが、聊かも気配だに見えない。そこに独国が黒染の衣を着て現れ、私が試みようと言つて何か熱心にお経を読み、そして終ると高声に気合をかけ払子を池中に投げ入れたら、間もなく大雨が降つて来たと伝えている。㈡生き物は殺してはならないと言い、着物を洗濯する時は先ずシラミを拾つて紙に包み置き、それから洗濯してかわくとそれに振りかけて着たという。又庭の草を取る時は、むしり取るのは残酷だと言つて、必ず抜き取るか掘り取つたという。遺物は地方民に数本の軸物と愛用したという黒塗の経五寸もある椀があるという。書幅は見たが椀は所蔵者不在の為め見ることが出来なかつた。鉄五郎は剣道に秀で、大和尚の伴侍として諸国を巡つたが、四倉に婿入りして世を終つた人物である。ということである。 次に福島県庁社会教育課梅宮氏の指導により、図書館に信達一統志を読んで見たら、信夫郡北沢又村の所に「独国という和尚があつた、この僧は米沢の文珠菩薩に祈誓をこめ仏教の真密を覚つた近代の名僧である」と書いてある。この本は巻之六で天保十年八月志田正徳著となつている。独国は文政十三年五月廿一日示寂であるから、死後十年の著書であるからよく真実を書いたものと思われる。福島市の北、泉駅から下車して約二十分 ばかり川か寒さぶという所に二間四面ばかりの草葺の地蔵堂がある。 その左後方に塩釜石より少し堅いだけで割合風化しやすい石、総高さ五尺に近い五台遍照独国大和尚と書いた次のような碑が立つている。これれを見た時の感激はとても筆舌では尽せなかつた。 川寒の独国和尚の墓碑(福島県) 地蔵堂の右側即ち北側に高さ一尺二、三寸の観音像が三十余体並列してある、石が風化して文字は殆ど読み得ない、土地の古老達に尋ねたら三十三観音だという。この地蔵堂の後方に三四十坪の墓地がある。昔金福寺のあつた所で、福島の真浄院に合併されたということである。筆者が石摺りなど取つて居る所に古老五六人集まつていろいろ話したが、四十才位のよく物の 915
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