女川町誌
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があり、法印は益々憤激して、たとい領主でもかく非道なる行為を黙止する事は自己の職責上許す事が出来ないと思い、断然其の顚未を藩主に上申した。けれども重賴は藩の役人に賄い故なく其れを却下せしめた。正義に燃え立つ法印は再三控訴したが重賴の巧な奸策は真を蔽うて偽を示し、自己の罪悪を暗にして却つて反対に無実な罪を法印に附して訴えたのである。法印は後不敬罪の汚名で、江島に終身流罪とされたのであつた。法印は罪なくして遠島の重刑に処せられ己は配所へ送られたのであることを明白にしようと、固く決心して、日夜祈禱を続けて一日も怠る事なく、三年後の延宝九年二月六日遂に悲憤の涙を呑んで孤島に愁死した。法印が死に臨んだ時、島人を喚び集め、「我が死骸は必ず逆さに埋められよ」と遺言して天を睨んで終つた。然れども逆さに埋めなば、官よりどんな咎めがあるかと思い、島守は之を尋常に葬つた。然るに其の者は忽ち大熱を発して死し、又其の日から絶えて漁がなく、凶事相次いで起り、島人は大いに恐れて屍を掘り出し、改めて之を逆さまに埋め直した。すると其の日から凶事も起らず、漁も常の如く復したとのことである。現在は島の丘の上に堂宇を建てて之を祀つている。爾来法印生前の高徳を慕い参詣するものが絶えない。八、岩五郎の針浜仇討仙藩復讐伝に岩五郎の復讐の顚末が記載されている。岩五郎は刈田郡白石邑乞丐小屋主で、安政甲寅元年二月その父岩次郎と共に大黒戯を街衢で演じて、岩五郎が先きに家に帰つた。父の岩次郎は酔うて円明寺前を通ると二人の者があり、その状が変つているので、之を詰じつた。応えて問うに癩人小屋(穢多の類)流寓の者、その名は寅吉(武州埼玉郡番非人)近松(磐城相馬郡小高駅無籍)であるという。三人は互に争つて時を移した。既にして格闘し岩次郎は遂に殺された。岩五郎は之を聞いて、直ちに赴いて、援うとしたが遂に及ばないので其の小屋に入つて近松を捕え又寅吉を追踵し之を本吉駅(岩代)に獲えた。その事状を藩に訴えたので藩二人を獄に下した。たまたま赦に遭い牡鹿郡江の島に流された。岩五郎謂えらく彼の二人の奸黠無賴の者は安んぞ、逃逸しないとも限らない。果して逃れんか典刑必ず死に当る。我れ復讐するも可矣と。江島は白石を距れること数日程屢々其の辺海に往き、動静を窺つた。十一人の義を好む者があり、陰かに其の力を助くという。ここに三年二人は果して逃れ、針浜三国山中に匿れた。岩五郎が牒知して之を踪した。乙卯安政三年二十八日同之沢を過ぐ、大雨初めて歇み、天色墨の如くである。二人は果して来た。岩五郎大呼するに応えない。再び呼ぶ。近松呼応し。石を抛ちて岩五郎の肩に中つた。そこで岩五郎が携える所の棍棒を揮うて其の頂を撲つ。流血淋漓、又寅吉を撲つに、棍棒折れて三と為つた。各其の一を執て闘う。岩五郎腕を撲たる。乃ち急に佩刀を抜き。近松の咽を断る。近松斃れた。寅吉之を見て走ろうした。偶々藤蔓に足を捉われて顚仆した。岩五郎はこの間にその喉を刺して之を斃した。この状を藩に上聞したので十二月十日褒賞があり、後ち世々銭七貫を賜つた。特に邑主片倉氏に命じて之を優待させたという。片倉氏は更に世々米二口、銭三貫を給与したと伝えている。、 902

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