女川町誌
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遺言して今後この島に住む者は神意を体して鷄を飼つてはならぬことゝした。それより幾十百年島民は遺言を固く守つて今も尚鷄を飼う者がない。島の中腹に日詰の五郎の墓と称せられた土饅頭様の所が近年まであつたそうだが、戦争中に耕されてしまつたということである。遺物や墓碑らしいものは何も発見されたことはない。七、伝説栄存法印栄存法印は江島に流された一人で、その墓並に法印を祀る栄存神社もこの島に在る。伝える所によれば法印は豊臣秀吉の臣片桐且元の息十郎左ェ門の二男に生れ、大阪落城の後諸国を巡錫して奥州に下り、仙台満願寺に居た。当時伊達家の臣で五百石を領し、宿老職を勤め、牡鹿郡湊村に居た笹町但馬は、領内牧山霊場の甚だしく荒廃したことを憂い、只管この山の再興を図り別当の任命を藩主に奏請した。藩は当時満願寺に居て高徳の聞えある栄存法印に牧山別当を仰せつけられた。法印は寛永十八年牧山に赴任して専心此の山の興隆に努め、正保二年の春現存して居る八間四面の壮大なる殿堂の建築を起し、翌三年の秋に落成した。かくて法印は修法怠ることがなく能く領民の感化に努めたので、其の徳を慕う者が益々多く、領主笹町但馬もまた殊の外厚く法印を尊信した。其の頃北上河口は泥沼のため船の出入が危険なので、藩では工事を起し浚渫に力を致したが成功が覚つかないので、人力もては叶はぬとして栄存法印に命じて神助を乞わしめた。法印は河口に祭壇を設け、丹誠を凝らして三日二夜の御祈禱を行いしに、不思議にも忽ち豪雨沛然として降り遂に大洪水となり、河口の砂を押流し大船の出入が自由となつた。土地の人士はいうまでもなく、工事奉行の有司も大いに喜び、事の仔細を藩主に上申いたした処、痛く御感賞になり、寛文元年利府郷に於て社領五貫文(五町歩)を御寄進になつた。笹町但馬が病死した後、嗣子新左エ門重賴が相続して町奉行に任ぜられた。此の重賴は性質が燥急で栄利を専らにして倔傲尊大の挙動が多く、法印が世の尊敬の大なのを見て不快に感じ、此の度の御沙汰に対し益々邪心を起し、近侍の役人に大金を賄い、利府郷を磯田新田と伝え、利府の上田は己が領地とした。一方法印は恩命を拜し、愈々丹誠を抽んでたので、此の有様を見た重賴は益々不安に思い、邑民の悍悪のものどもを誘い利を以て旨を喩し、牧山境内を侵さしめた。そこで法印を大いに怒り、神域を掠める事は奇怪なりと、官に訴えたが、もとより重賴の巧らんだ事故、役人が之を取上げる筈もない次第であつた。其の中利府の賜田を磯田に換えられた内情を告けたもの901 栄存法印の用いた香炉
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