女川町誌
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でも返事がない。みんなで手分けして藪かげや磯の方まで探したが見つからない。夕暮近くなる頃止むなく引揚げた。その娘はまだ十六才で気だての優さしい美しい娘で、江島小松と評判され誰にも可愛がられてる或家の一粒だねであつたから、その悲しみも評判も大きくなつたのである。島で探し会つてる最中誰かが斯う言い出した。「今朝船に乗る時あの子は止めようかなあと至つて気がすゝまなかつた。舟の中でも浮かない顔ばかりして居たぞ」「気分でもわるかつたのかなあ?お握りは持つて来なかつたぞ私が半分やつたら食べたくないと言つて一寸下の方にさがつて美し浜の方ばかり眺めて居たのだがなあ」「あそうだみんなが帰ろうと立ち上る一寸前までじき下で沖を眺めて居たのだぞ」「あ、そうだそうだ」と三四人が言い出した。不思議だなあ。妙な事だなあ。と繰りかえすのみであつた。島に帰つて古老に話たら「そうかそうかそれが神隠しというものだ。神隠しというものは一寸の間になるので、其の後はいくら探したつて出て来るものではない。お前達も聞いてるだろう。江島足島金華山附近で死んだ人の亡霊がシケのする晩あの辺を通る船に時々近寄つて来てヒシャク貸してくれと言う者があると思うと、美しい娘をくれろと言う者もある。その亡霊が天気のよい日中には時々無人島に上るらしい。その時運わるく丁度に出遭つた者が神隠しになると昔から言伝えられている。思い出したが今から三代ばかり前にも草摘みに行つて行方不明になつた娘があるそうだが、考えて見るとそれも神隠しであつたらしいなあ、何せあの浜が美しい美しいつて娘達がよく行きたがるが、これから娘達は草摘み場や美し浜に行くことは考えものだぞ。よくみんなに話しておくがよい。」と言つたそうだ。それから草摘み場に餅草摘みに行くことは全く止み地名のみ現在まで残り、又娘は美し浜に今も当磯物取りにも行かないことになつている。そして此の浜に行つた時は男も美しいと言う言葉は使わないということである。六、伝説樋爪五郎と金鶏樋爪又は比爪と書く人もあるが、岩手県の日詰が五郎の居城であつたから日詰と書くのが正しいと言われて居る。平泉は藤原三代栄華の地であることは広く知られているが、藤原清衡の四男清綱の次男に季衡という者があつた。これがこの日詰の五郎である。平泉の藤原氏は源義経をかくまつたという理由で兄賴朝の不興を買い遂に攻め亡ぼされた。日詰五郎は文治五年賴朝に降り捕われの身となつたと正史にあるが江島では次のように伝えている。五郎は戦破れて本吉郡大島にかくれたが、追手がきびしいので逃れて江島に渡り、湾口の君が袖に上陸した。従う者稲葉・井上・小山・木村・斎藤等五名、無人のこの島に始めて開拓の手を加えて今日の江島とした。然るに五郎逃げてこの島に渡る時宝物として金の鷄を持つて来たが、夜な夜な時をつげて鳴くので身辺危険を感じ止むを得ず横根の鼻を掘つて埋めたら全く鳴止んで安心することが出来た。横根の鼻は島の東北部で、東北の風が強いと波がはげしく打ちつける所である。程経て金鷄を取出そうと行つて見たら何時の間にやらその辺一帯が波に洗われて姿はなくなつた。惜しい宝物であつたとなげいたが、これも長く安全を守るための神意であろうと解し子孫に900
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