女川町誌
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ち安永二年以後の火災で又焼けたために、社地として御殿の跡を去り、下に移転する時に奥院として当時の人達が建碑したものであろう。信仰にも時代の流れが押しよせて来たあとをながめると何んとも言えぬ昔なずかしさが湧いて来る。次に述べねばならないのは鐘のことである。だが惜しいことにこの鐘も大戦に召集され銘も書き写してる者がない、従つて時代も鐘師の名も不明である。しかしこの鐘は物語発端の古い時代からの鐘で、火災の時谷まで転がしたヒビ割れが次第に大きくなり、大正時代に石巻星沢熔接工場で修繕したが、音は何んとなくにごつてあつたと地方の人々は言つてる。次は物語りの核心にふれて行くことになるが、この鐘は伊達の梁川の鐘師が鋳た物であると古老達は皆言つているが、筆者は梁川に昔鐘師があつたかどうかが先づ解けなかつた、昭和三十一年夏遠刈田温泉で伊具郡丸森の人で年齢六十に近い実に民謡の上手な人に会い、種々物語りしてるうちにその人から仙南地方の鐘は大抵梁川で作つてる、私も明治四十年頃行つて作つてもらつたことがあると聞かされ、自信を得翌三十二年福島市に史跡調査に行つた折梁川の公民館を訪ねたら、熊倉老先生を紹介されて親しく貴重な話を聞くことが出来た。それによると「梁川には古い時代から鋳物師数軒と鐘師があつて藩政時代には何れも繁昌したものなそうだが、明治末頃から次第に淋れ、近年鋳物屋は皆転業して一軒もなく、鐘師も三十余年前埼玉県の川口に行き多くの職工を使用して鋳物屋をやつてるそうです」ということで、尾浦の人々があの鐘は梁川の人が鋳たものだと言つてる伝承が必ずしも荒唐無稽なものでもないと信ずるわけである。さて古い昔のことであるが、或年浜々には夏の大漁があつた。その時御殿の法印(修験者)から権現様に御礼として鐘を奉納したらどうかと尾浦の重だつた人達に御話があつた。村の人達に相談したら、それはよい事だと近隣の浜々に呼びかけて見たら大変な人気である。どこの鐘師を賴もうかと相談したら、旅商人の話しには伊達の梁川の鐘師が名人でよい鐘を作ると言うので、それならその人をと早速時の肝入と神主の手紙を持つて賴みに行つたら何やかやと手間取つて約一か月ばかりで鐘師は到着した。その鐘師の指図で金属類を集めたら意外に集つて、五六十貫の鐘になる予定がついた。御利益が厚いという信仰と音がよくなるという話しで、婦人達からは我も々々と指輪や簪など金銀の含んだものの寄附が多かつた。而かも大漁の後をうけて現金の寄附も多く五六十貫の大鐘にすることに決定し、鋳型を造るやら、カマドを造るやら、梁川から金類をとかすルツボを取り寄せるやら、鐘楼を建てること、道路を修理すること、それはそれは大仕事となつた。秋に始めた仕事が二月の末までに漸く出来上つたので、各浜々に通知を出し旧三月七日祭典の前日朝から鐘の引上げを始めるから応援を賴むということになつた。尾浦では村中総出である。そりの上に鐘をのせて固く結びつけそれに何本も大小の綱をつけて掛声も勇しく引上げた。坂は急だその上所々曲りくねつているから容易でない。しかし夕方までに山上に届き、それから種々工夫をして無事に鐘は鐘楼に吊し上げられた。法印は祈禱を行い、そして撞き初めをした。何んという良い音であろう、神々しき余音は御神徳895

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