女川町誌
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が、民謡としてこの歌詞はわざとらしさがなく、上品で、情緒がこもつて、そしていて魅力のある稀に見る民謡だと言つてほめられたことがある。ところがこの民謡物語、即ち尾浦御殿物語を某氏が終戦後創作して小册子の一部にのせたものが各地に流布され、宮城県史にも掲載された。これはどんな方面から取材されたものか、郷土尾浦に長く伝承されて来たものとは全く別のものであることを明記する。さて郷土史としては尾浦御殿とはどんなものかを解明するのが先決の問題であるが、一言にしていえば今の尾浦部落に奉祀されてある羽黒神社が、所謂御殿旧跡に祀られてあつた頃の社殿のことである。今の羽黒神社は火災に遭うこと三回、後に移転改築されたものである。旧趾一帯は雑木林になつているが、仔細に見ると御殿山の頂上に近く尾浦湾を望み得る所に、山を切り崩して北西の風を防ぐ約二十坪位の平地があつて、その中央に羽黒大権現奥院という別掲写真のような三尺近い自然石が、拳大の玉石数十個敷きつめた中に建つている。その敷地から三尺位下がつて約六十坪ばかりの敷地が認められ、その敷地から尾浦の方へ下る道の跡も認められる。今の道路はこの敷地より南東の一段下を通つている。奥の院から三尺位下がつた敷地は、拜殿や他の建物でもあつた所であろうが、そこから西南の方に一段高く相当の広さを持つ平地があつて、大東亜戦争末期電波探知機施設の一部分のコンクリートがそのまま残つている。安永の書出を見ると社地南北百二十間東西六十二間とあるから、電波探知機施設のある地帯や今の道路を越えた東南の方の平地も含まれたもので、相当広い社地であつたことと思われる。社は四尺五寸作であるが、尚横額羽黒大権現とあつて東向の鳥居もあり、当時の尾浦八社の中で最大の社殿であつた。地方古老の話によるとこの権現様は、昔は尾浦を中心として石浜・桐ヶ崎・竹浦・御前・指ヶ浜などの浜々で祀り、大規模の社殿があり、修験者が常住して旧三月七日には皆集つて盛な祭典をしたそうだ。それでこの辺を誰言うとなく御殿山といいならわしたという。しかし三回も火災にかかつて、今の所に祀るようになつてからは、全く尾浦一区だけで祀る羽黒神社となつたのである。以上のことから推定すると安永の書出にある羽黒大権現社は、大規模の社殿が焼失して仮宮を建ててあつた頃のものらしく、弘化に建てた羽黒大権現奥院の碑は、その後即894 羽黒大権現奥院の碑

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