女川町誌
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お福田という行事を古い昔から行つて来たのであることがわかる。しかし行事の内容は創始の当時に比べたならば幾変遷はあろうが、お福田をやろうと先祖の始めた美しい精神を伝えて居ることは珍らしい。七日の朝は若木迎えをする。晩は現在なら実業団員(壮年団員)が米・野菜等を保福寺に持ち寄り、翌朝午前零時から風呂をわかし会食の調理をする。早旦住職に入浴せしめ午前五時一同列座して大般若祈禱を行い、これが終ると一同楽しく会食をする。午後一時乃至二時より春祈禱の獅子舞を大体二日がかりで行う。十一日は農始めで昔は銭をつなぐサシもあつたが、今はモドツと称する太い丈夫な鋼や、小舟などに用うるハヨ正しくはロヅナ又はハヤヲ即ちロと船を結ぶつな等をなう。十四日子供かせどりという行事がある。カチノキを七八寸の長さに二本揃える。これは子供かせどり用であるが別に木の箸二本、火箸四本、ハラミ木は神様の数だけ作つて神棚に供える。さてかせどりは夜になると、子供等がカチノ木の棒を拍子木のように打ち合せながら「カセドリカカカラカあすの晩は来ねから今夜ばりケテケラエ」と唱えて各戸をめぐり餅などを貰つて歩くのである。田舎の子供等の楽しい行事として各地にあつたものであるが今は少くなつたようである。河北町方面ではチャセゴと言つてる所もあるが、五十年配の人は知つてると思う。十五日は十四日に作つて神棚にお供えしたはらみ木にて、神棚や門松などを打つて御祝い申上げ、暁に湯餅をあげて松納めと称し室内外の松や七五三飾りを一切納めてお送り申上げるのである。午後の四時頃になると夕食の前後に用いた水を住宅のまわり隈なくまき、それが終ると子供等はナマコを繩でくくり之を引きつつ「ナマコ引きのお通りだ長虫よけろ」と言つて三周する。三回まわり終るとそのナマコを海に流してやる。そして木刀を持ち果樹の前に立ちこの木刀を木に当て「なるかならねか、ならざら切つぞ」という、他の一人が「なりますなります」という、そして子供等の行事も終る。十六日は鳥追いをする。カラスが自分の家に止つて糞をすれば病人が出るというわけで、早朝神棚からハラミ木を持つて来て竹竿などを打ちならし、やへい紙を振つてカラスを寄せつけないようにする。しばしば用いられたハラミ木とはハラエ木ではあるまいか。言海にはらへぐし(祓串)という言葉がある。それは皇太神宮にて祓に用いたる玉串、細そき木に紙を細そく切りて付け、これを分ちて箱に入れ神符として人民に配賦す、俗に祓箱という。とある。このハラエ串から来たハラエ木ではあるまいか、用途から考えると左様に思われる。さてカラス追いが終ると、神棚に供えて居た木の火箸は炉に立て、木の箸は朝がゆの膳に添えて神前に供える。朝の以上の行事が終ると全部落全家族休みとする。正月の末に餅を搗き、 二月に小正月と称して年祝などをする。以上は尾浦の正月行事である。883

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