女川町誌
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いでいる。稲の田植は桃生牡鹿地方は、従来六月になつてから田植が始まつてあつたが、五、六年前から油紙、ビニール等を用いて早まき、早そだてをし、五月中旬甚しきは初旬に田植をするようになり、晩夏初秋の冷害から殆ど逃れ得るようになつたことは稲作大革新の一つである。六月朔日これも旧六月であるが馬のスカンポの実をこき取り寝室に前夜ちらし、これをノミの舟と称し朝にはノミをこの舟に乗せて送つてやると言う行事で、児戯に類するようなことでもある。七月七日の七夕祭りは小学校などで行わせるのを見る位のものである。しかし仙台の盛大なる行事に刺激せられ、八月の盆行事の一として商工会が数年前から中心街に飾りつけを奨励し相当客を呼んでいる。八月は盆行事の月である。七日は墓掃除十三日は盆棚の飾附十四日、十五日は自家又は親戚隣家等の墓参或は郷里の墓参もこのころ行う。十六日は正月と同様やぶ入り。地獄の釜のフタさえあける日であるなどと称し休むことにしている。この日の午後は盆棚を解いて供物や飾りを海などに流す。中には十五日に流す家例もある。盆祭りのある月の月末に送り盆と称し仏事を行う。九月旧の八月十五日は明月で枝豆・栗・芋等を供えて一家御馳走を喜ぶ、旧八月一日は三朔の一つで餅などをつく。旧九月九日は重陽の節句で神前に餅をついてあげる。大方新米でつく。旧九月十三日は芋明月などと称して月見をする者もある。十月二十日旧暦の十月二十日に神前に生きた鮒などを供え、餅を搗いて本年の取入れを祝うことは、漁家商家農家とも大体似たようである。十一月十五日旧の十一月十五日油しめと称して餅をつくが、町内で油菜や大豆から油をとる所はなく、塚浜では椿油を締める家が今にある。また女川水産加工業者は昔はいわし今はさんまから油を多量取る。十二月これも旧暦であるが朔の祝をする。豆腐を串に刺し炉の四隅に立て、又餅をつく。この餅をカワッパィリ餅という。大詰になると正月の餅をつく。その日は二十七八日頃であるが二十九日は忌み嫌つている。大晦には松飾りをする。これらの正月行事は数年前から陽暦に移りつつある。二、尾浦の正月行事尾浦は古文書古碑等より見ると、女川町内でも早く開拓された部落であるが、正月祝には珍らしい旧慣が今に遺つて居るから、鈴木勘治氏談を次にかかげる。この旧慣は親類一団となつて行われるのであるが、あまり多人数になると実施困難になるので二組位に分れて行われる。現在千葉家は十三人で二組に、阿部家八人で一組、鈴木家十二人881
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