女川町誌
947/1094

藩政時代から鰹漁をやつていたが、大正五年に発動機船が作られ、大正十一年植木佐五郎氏の天赦丸(二〇噸二〇人乗)が出来る頃から益々盛んになり、大正末はは鰹漁船を有し、且つ鰹節製造の一貫作業をやつた。大正末には鰹漁船を有し、且つ鰹節製造工場を有するもの一〇戸を数え、且つ鰹漁船十二艘に及んだ。元来谷底狭い土地に立地した集落だから今まで海藻等の干場に使つた前庭等に工場を建てた。労力も漁船の乗組員や製造工場の女工等も島外から入り込むものが多かつた。昭和五年浜口内閣の金解禁に際会するや、それまで尾長鮪を一貫匁一・五弗で米国に輸出していたが、一弗四円七十銭が、一弗一円になつたから鰹鮪漁業家が悉く倒産し、鰹漁や節製造をなすものはあとを絶つに至つた。その救済策として出島部落と共同して二〇〇噸の鉄船出島丸を造つて大型船による遠洋漁業をやる事になつた。全国一の大船が昭和八年に造られた。組合長は須田金太郎氏、事務理事は植木新作氏、県の水産課長松本幸四郎氏の指導のもとに造船進水した。昭和十二年に政府に徴用せられて、沈んでしまつたが作られた当時は大いに気勢をあげた。その頃女川港の市場機構も出来、製氷場も完成したので、従来の如く寺間に水揚しないで女川に水揚げすることになつた。従つて鰹節の製造も女川で行われることになつたから寺間の女の仕事がなくなつた。これが畑の開墾を促すこととなり、もとは谷底にしかなかつた畑が戸数の増加に伴つて、谷底の平地ばかりでなく海蝕台地の上まで開墾されることになつた。戦時中の開墾増加と相待つて現在では主食以外は全く自給が出来る様になつた。出島丸一艘のみでは、男の労力もあまつたので沿岸漁に転向、現在寺間の小型動力漁船は廿三艘を数えている。これが出島部落の手こぎの小漁師が多いのと著しく趣を異にしている。青壮年層はこの小型動力船の沿岸漁と島内及び島外の大型漁船乗組が大部分である。877

元のページ  ../index.html#947

このブックを見る