女川町誌
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浜鎮守として遷座したものであるといつてる。⑷年始廻礼、寺間の家々では元旦には寺間部落内を廻礼し、正月二日には出島部落に至り、先ず各自の本家(お庄屋)に祝詞をのべ、次は寺、次に親戚に祝詞を述べ、次に出島部落中を廻礼する。三日の日には出島部落の家々を廻礼する。お盆礼も先ず寺間の人々が出島部落に廻礼し、翌日出島部落の人々が寺間に廻礼する。⑸お庄屋(本家)寺間部落の昔からの家は二十三戸と伝えられるが、各出島部落に総本家をもつていて、これを「お庄屋」といつている。全部落は殆んど阿部・須田・武山・植木の四姓であるが、阿部・須田の二姓は出島部落の同姓の旧家がお庄屋である。植木姓は出島部落の須田氏をお庄屋としている(出島部落には植木姓はない)また武山姓の家も出島の須田氏をお庄屋としている。植木、武山二姓の須田氏に対する場合は「わらぢぬぎ」と称している。即ち島外から来て須田氏の家に草鞋をぬいだというのである。以上述べたお庄屋に対しては今なお正月・お盆その他の場合に本家としての礼をつくしている。六、寺間の戸口の増加前述の如く寺間は出島の端郷で、出島部落の肝煎に属していたが、その肝煎須田家が火災にあつた為め人数改帳が残つていない。随つて藩政時代の戸口を詳にし兼ねるが、言い伝えでは二三戸だつたといつてる。そして明治九年にも二三戸そのままであつた。然るにその後昔から分家の制限はなかつたようであるが、明治九年の二三戸が同十三年に二五戸、同十五年に二六戸となり、更にその後は急激に増加して現在は培加して一〇七戸となつている。七、寺間の経済生活876
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