女川町誌
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先に一寸寺間部落の創始について述べたか稍委しく述べる。享保八年(一、七二三)に出島の百姓長兵衛、組頭孫兵衛二人及び肝入儀兵衛の連名で「寺間に畑に開墾出来る場所が二丁程あつて百姓二十軒程も居住し得るから開発を許されたい。出島の百姓だけで新百姓が不足の場合は他浜の者なりとも吟味の上追て願上げます。」と藩に願出た。長兵衛というのは当時寺間を所有していた地主で、即ち安永風土記書出の出島の代数有之御百姓に記載されている須田長兵衛である。藩で吟味の上許可の指令が出島の肝煎に下つたのは享保十一年(一、七二六)のことである。かくして寺間の部落が開かれることになつたが、移民は前記の願書及び現在の民俗から推して考えると、出島部落の家々から分家したもの及び島外から移つて来て出島部落の有力な家を草鞋ぬぎ本家として、その後援によつて家を持つたものであつた様である。その頃の戸数はいい伝え及び明治初年の状況から推して二〇戸前後だつたと思われる。五、寺間と出島との関係二つの集落は明かに親村子村の関係であることは、寺間開墾の願書の外、種々な民俗によつて知ることが出来る。⑴旧藩時代を通じ寺間は出島村の端郷として取扱われ、屋敷名も寺間屋敷とはいわず出島屋敷の内であつた。⑵八雲神社は出島部落にあつて同部落の鎮守であるが、寺間の家々も皆その氏子で大正の末年まで全戸その祭典費を負担していた。寺間の植木家の如きは「八雲社の氏子だから」といつて今なお胡瓜を食べない。⑶巌島社、今寺間部落の鎮守であるが、代々出島村の肝入だつた須田氏(出島部落)の家伝によれば当社は須田家の氏神で出島部落の下り松という処に祀つていたのを、寺間切開きに際し当時の分家須田儀七郎を神主とし、寺間875

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