女川町誌
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この港は南に開けた主湾から東に入りこんだ小湾なので、南風の強い時は一番波が入る。また西風の強い時も波が立つので、こんな時は部落の舟は皆出島部落の港に避難した。昭和八年には防波堤を築造したので、今はこの波も防げる様になつた。湾の奥に僅か四〇―五〇米の砂浜があつて舟引場をなしている。現在は小型発動機船を防波堤のすぐ内側まで入れている。支湾は深さ一・五米、主湾は一〇米の深さである。つまり寺間は漁村としての必要条件である漁港をもつているが、しかし出島港には及ばない。三、寺間聚落の景観前に述べたように寺間の部落は、幅僅かに四〇―四六米の狭い谷底に両側の崖下に近く古い家が建つている。かつてはその前を海産物の干場にしていつたが、大正年代の鰹節製造の盛な時代に、大きな製造工場(納屋を兼ねた)を建てたので、殆んど空地がなくなつた。然るに昭和五年以後節製造をやめるに及んで、この納屋として使われた建物が、人口が増すにつれ、これに世帯を持つものが続出し、且つ谷の上流に至る迄の谷底にも人家が建つた。この集落に入つて見ると、実に狭い処に沢山の人が住んでいるのに驚く。遂に谷底から溢れて小坪に廿二戸が建設され、防波堤に至る道路が埋立てられるとこの崖下に建つた納屋に引揚者が世帯を持つという状態である。かくて二十二戸が遂に一〇七戸になるという振興状態である。農村にくらべると戸口の増加の速度に驚かざるを得ない。部落の昔からあつた部分に共同井戸があるが、その外谷底の到る処に井戸を掘れば水の湧くのも部落の膨張を可能ならしめた一つの原因であると見られる。四、寺間部落の創始874
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