女川町誌
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とある。かように維新前までは人口増加の必要を痛感し、種々の奨励策を講じたことが窺われる。 尾浦表御百姓取相立願 幕府も藩も封建制度は整つても、財政の基礎は農民の年貢によつて賄われるのであるから、士の次に農を置き、而かもその政策はきびしかつた。農民はその居住地をかえることは許されず、衣食住すべて制限をうけた。「死なぬように生きぬように」年貢をとりたて、士はそれによつて暮しを立て幕藩制が維持されたのである。仙台藩は侍の数が多く、政宗の時から既に財政難であつたが、年貢米や農民から買上げた米を江戸や大阪で売り、その金で賄つて来たが、参覲交替による江戸生活の出費が多く倹約令を出したり、農民には御条目という心得書を出したり、更に僅の田畑を持つ農民をもどしどし本百姓に取り立てて、年貢の増収をはかつたのである。次の正徳五年(一、七一五)に於ける尾浦の表御百姓取り立て願は、その書類である。この書類によつて察するに、本地とは旧来土地台帳にあつて年貢を納めて居た土地で、新田はその台帳にない新開墾地で、これから年貢の対象となる土地で あろう。 表御百姓相立願(正徳五年) (尾浦千葉亀之助氏蔵) 32

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