女川町誌
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昭和三十年に於ける出島の戸数と人口出島一一八戸八三八名寺間一一〇戸八七五名計二二八戸一、七一三名遡つて藩政時代に於ける出島の戸口を安永二年(一、七七三)の風土記書出によつて見ると、当時人頭四十八人(内寺壱か寺)、家数四十七軒(但し名子水呑借屋無御座候)、男女都合二百五十七人(内男一三六人、女一二一人)とある。なお舟の数は七十艘と記している。そして代数有之御百姓書出には、肝入須田善蔵の外、長兵衛(須田)・藤兵衛(阿部)・六郎兵衛(阿部)・万右衛門(阿部)等五人が書上げられている。肝入須田善蔵の祖先については次の様に記録されている。四代相続 善蔵右善蔵儀先祖須田文右衛門以前名前代数並誰代何方より当島え取移候儀共相知不申候間、右文右衛門より御書上仕候事先祖須田文右衛門二代 儀兵衛三代善右衛門四代 善蔵右善蔵儀延享二年肝入被仰渡当安永二年迄弐拾九ヶ年相勤当時勤仕罷有候事以上代数有之御百姓の須田・阿部などの姓は、今も本島に多く見られる姓であり、そして是等の人々が本島開拓の中心となつて来たものと見られる。次に大正・昭和時代に於ける戸口の変動を表によつて示して見よう。二、出島の生業出島開拓の歴史は詳かでないが、草創の当時は戸数僅に八戸に過ぎなかつたと伝えている。そして当時の生業は主として製塩であつたが、星霜を経るにつれ人口も次第に増加し、薪炭の欠乏を告げる様になつたので、塩を煮るより出島屋敷肝入儀兵衛子文右衛門子善右衛門子肝入869

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