女川町誌
924/1094

の主なる人物である。斎藤外記藩祖政宗公の時代、藩士斎藤外記永門は、孝女阿郷の事に坐して江島に配流された。後ち伝説の人と伝えている。この事に似寄つた事件は寛永五年頃にあつた。先に政宗公の近臣下郡山清八郎なる者が、亡命して越前候に仕えて鷹匠頭となつていたことを探知したので、政宗公は外記に命じて之を捕えしめようとしたのである。外記は行商となり、城下を往来し遂に清八郎を捕えて仙台に帰つた。公は大にその功を賞し、その望む所を外記に問うた。曰く臣敢て財物を望まない。唯臣が住居する所に臣が名を以てすることが出来れば誠に望外の幸であると、公は之を許した。今仙台市の外記丁はそれである。その他江島に流人となつた人に、伝説の編に取上げた栄存法印がある。また田村平治なる者があり、田村は発狂人を傷つけた為に、ここに流されたという、遂にこの島で死んだので、埋骨した。その墓標は本島一本松にある。更に大河内源之助・赤坂七郎右エ門などの紙幣贋造者や大内千代之助・高橋清左エ門の如き才能のある配流者もあつたので、是等の流人は陰に陽に全島の文化発達に影響を与えた。特に小学校の創立当時は仮教師となつて生徒の指導に当つた者もあつたのである。二、流人島の格式仙台地方が伊達氏の封土となるや、江島を重罪犯人の流刑の地と定め、軽微の犯罪は田代・網地・長渡を配流地とした。之は律令の近流・中流・遠流の制に則つたもので、遠島処分の手続きについては幾多の改革があつた。仙台藩に於ては延享二年九月、国老遠藤守信等の奉行の時永牢の刑を廃して流刑に換うべきことを令した。そして喪心者はこの限りにあらずとし、流刑に関する法定を定めた。次に天明五年に公布した流人島之格式を掲げて見よう。854

元のページ  ../index.html#924

このブックを見る