女川町誌
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は華氏三十度内外で、夏季の最高温度は八十五度以上に昇ることは稀れである。しかし春は離島であるので陸地からの西北風を受けて残寒が容易に去らないばかりでなく、晩秋から翌春にかけて西風が烈しく、一、二月の交は為に一か月の三分の二は殆ど出漁が出来ない状態である。四、江島の定期船藩政時代に於ける江島の諸税夫役の負担、即ち海上高、その他総ての年貢は組頭が集めて肝入に納付した。夫役は船夫と称して公用で上陸する際には男五人宛を出した。また道路の掃除その他総て区用に使用する人夫は陸船夫と称して是等には船夫札を給した。この公用に供するための船夫は、明治時代に及んでもこの風が残つていた。船夫の労はなかなかで、時には船の転覆または溺死の厄に遭うことも少くなかつた。大正元年十二月稲葉常蔵氏が海軍に入団する際、船夫が災厄に遭うたのはその一例である。その後稲葉清作氏により、女川・江島間通いの発動機船が運行し始め、大正六年六月より郡補助を得て定期発動機船の運航を見るに至つた。現在の江宝丸は四十数年一日の如く通い続け、島民に多大な便利と幸福とを与えている。更に年々地元区よりも五拾円の補助金を出して船夫に当らせることとした。されど天候不穏の時は発動機船も航行を停止せざるを得ないことがある。従つてかような場合には幾日も天候の回復を待たねばならない。五、江島の電化電灯が始めてわが国に於て使用されたのが、明治十五年のことであり、仙台に於て始めて試みたのが同十九年であるが、江島の離島に於て点灯を見る様になつたのは大正五年頃のことである。その後次第に電灯は普及して来たが、昭和二十八年に至り、島民多年の宿願であつた電灯架設工事は、江島漁業協837
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