女川町誌
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一、江島の小史江島の由来については色々と伝えられているが、確なる歴史を伝える文献は少なく、僅かに口碑伝説の断片があるに過ぎない。安永二年に江島肝入弥三郎より書出された代数有之御百姓書出によれば「六代相続江島屋敷七之丞儀、先祖斎藤三郎右衛門儀往古より当島に住居仕一村草創之御百姓にて、先祖代より引続佐五平迄肝入相勤、且又先祖三郎右衛門代寛永十八年御竿答仕候以来引続相続仕候得共、三郎右衛門以前名前並代数共相知不申候間、右三郎右衛門より御書上仕候」とあり、寛永年間頃より既に斎藤三郎右衛門なる者が肝入を勤め、その後子孫相続いて安永年間に及んでいることが知られる。更に同書出に「以下九人何れも当村草創の御百姓にて、面々先祖共代何れも寛永十八年御竿答より引続相続仕候事」とあり、江島屋敷の住民として市平・作右衛・茂五平(以上六代)佐伝次・次右衛門・甚九郎・清左衛門・与三郎・半之丞・甚左衛門(以上五代)などの名があげられている。従つて是等の人々が中心となり江島の生活が営まれていたことが知られるのである。伝説によれば、これより先き寿永の昔(一、一八二―八五)藤原基衡の孫日詰(樋瓜)五郎季衡(岩手県日詰の城主)が源頼朝に追われて当地に遁れて来て開拓したということである。その頃の江島の戸数は七戸で、その中の六戸は今に至るまで存続していると伝えられている。(伝説六参照)二、江島の戸口と住民江島の戸口は安永二年の風土記御用書出によれば、人頭は九十四人(内寺壱ヶ寺)、家数は九十五軒(内名子二軒)、男女都合四百四十七人(男二二九人、女二一八人)とある。今より約二百四十年前の享保時代に於ける江島の畑代は一貫五文であつたと伝えているが、五十年後の安永二年の835

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