女川町誌
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光旅館も建設したが、その七月支那事変が勃発して時局急変し、一方金華山軌道もあまり振わず、自動車交通もタクシー位のもので淋しく、遂に船は姿を消し旅館建築も半にして解体された。金華山は出羽の三山、南部の恐山と共に古来奥州の三霊山として有名であつたが、明治時代までは陸路石巻・渡波・鮎川経由、山鳥渡を小船で渡つて行く信仰を主とした参拝客であつたが、大正の末年頃石巻山西造船運輸株式会社が金華山丸を以つて、更に鈴吉汽船株式会社がその後をつぎ、石巻・鮎川・金華山を結ぶ定期航路が開かれるや、この船便によるものが主流となつたのである。然るに合同汽船KKは昭和二十三年五月第一黄金丸という観光船目的三九・八屯の新造船を進水し、新なる構想のもとに金華山観光事業に発足し定期航路の申請をしたが、何故か許可がない。しかし宣伝の一つとして石巻・女川の写真同好者に案内して一日間同新造船を無料提供したが、参加者が甚だ少く同二十五年七月には石巻十名、女川五名参加して竹浦・寺間・江島方面を巡航して景勝の地を紹介する第一歩をふみ出したわけである。同年社長須田善蔵氏の発意により、鈴木丈岳氏の筆に成る江島娘のポスターを作り、金華山観光の栞をも印刷して県内と山形県に呼びかけた。何れも合同汽船KKを中心に本格的に宣伝を開始したのである。四、女川観光協会の設立昭和二十四年四月から宮城県観光連盟の呼掛に応じて、女川町は町長木村主税氏を会長として参加し、二十五年四月廿三日女川観光協会創立協議会を開き、同年五月十日創立総会を開き左記の通り正式に県観光連盟に設立届を出した。昭和二十五年六月二十四日牡鹿郡女川町内女川観光協会長木村主税宮城県観光連盟会長佐々木家寿治殿観光協会設立届819

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